昨年の10月に埼玉県吉見町にある吉見百穴に行ってきた。心苦しいが、わざわざ吉見百穴を見るために出かけたわけではなかった。
日ごろの運動不足解消のために、バス会社主催のウォーキングに参加したら、たまたま入っていたのである。
あまり、人に話せる動機ではない。
吉見百穴の横を通り過ぎるだけと思っていたら、一時間も見学時間をくれたので、じっくりと見学ができた。
吉見百穴は古墳時代後期(6世紀-7世紀頃)の横穴墓群の遺跡である。
学生のころ、友人と二人でわざわざ見にいって以来、2度目の見学である。
吉見百穴のことを、昔は「よしみひゃっけつ」と呼んでいたが、今は「よしみひゃくあな」と言うらしい。
百穴は、凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから名づけられたものである。
明治20年(1884)に発掘調査をした坪井正五郎は、人類学からの視点で、日本の先住民族、コロボックルの住居と考えた。
現在は、各地で同様の遺跡が発掘調査され、集合墳墓という理解が定説になっている。
遺跡は整備され、有料で公開されている。
急な岩肌に沿って階段の見学路があり、四角形やかまぼこ型に掘られた穴が見られる。
その数は219個という。横穴墓群の遺跡としては日本一の規模で、国の史跡に指定されている。
いくつかの穴には入ることができる。
穴の中は立てないほど低く狭い。
なかには棺を置く台座が設けられているものもある。
発掘調査によって、金環、銀環、勾玉、直刀、鍔、鉄鏃などが見つかっている。
遺物の一部は、同地内にあるお土産屋の店内に飾られている。
古代の遺跡ではないが、太平洋戦争中の軍需工場跡や国の天然記念物に指定されている自生のヒカリゴケも見られる。
与えられた一時間があっと言う間に過ぎた。
残り10分ほどで、みやげ物を見ようと店に行ったら、向かいの吉見町埋蔵文化財センターに気がついた。
センターには、吉見百穴の出土品や吉見町内の遺跡からの出土品が展示されている。
残り時間が余りなく、ここの展示品はざっとしか見られなかった。残念である。
吉見百穴から八丁湖を巡り、約2.5キロメートル先に、同時代の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。
ウォーキングでそちらにも行ったが、ここには説明の看板はあるだけで、横穴の場所がよくわからなかった。
後で、昔、訪れたときの写真を探したら、黒岩横穴墓の穴の入口で撮った写真があった。
40年前は見学自由状態であった。
今は遺跡保存ということで、柵に囲まれ近寄ることができない。
黒岩横穴墓群はあの辺りにあるらしいという説明を聞き、遺跡を想像しながら森を後にした。
歩きながら当時の人は何故こんな急斜面に墓を造ったのだろうか、疑問に思った。
いくら柔らかい岩盤でも、地面よりは硬い。
それに、急斜面での作業は危険を伴う。
でも、これだけの墓を平地に造ったら広い場所が必要になる。
平地は田畑に利用すれば、収穫があがる。
ということは、土地の有効利用ということが最大の理由だったのかもしれない。
なんとなく一人で納得してしまった。
街中に出て、吉見百穴をデザインしたマンホールを見かけた。
吉見町の人にとっては、大事な文化財、自慢の名所なのだろう。
そこで、記念に写真をとった。
少々、不完全燃焼の部分もあったが、秋晴れの一日を森や湖のを見ながらのウォーキングは楽しかった。
写真 1:吉見百穴横穴墓群入口の石碑(館長撮影)写真 2:吉見百穴横穴墓群(館長撮影)
写真 3:吉見百穴横穴墓の中の様子(館長撮影)
写真 4:お土産屋に展示されている吉見百穴横穴墓群の出土品(館長撮影)
写真 5:40年ほど前の黒岩横穴墓群の様子(館長撮影)
写真 6:吉見町のマンホールのデザイン(館長撮影)
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