岡山県の尾道に住む河野俊章さんから二冊の本が送られてきた。『予言 大隅邪馬台国』(2008・牧歌舎)と『古日向 邪馬台国』(2016・牧歌舎)である。
ともに、河野さんの労作である。
著者略歴によれば、1936年 岡山県に生まれ、長年、広島の高校で英語教師勤務とある。
1995年頃から邪馬台国は大隅半島と確信して、研究に励んだという。
その成果がこの二冊の著作である。
前本の帯に河野さんの疑問が書かれている。
≪「魏志に卑弥呼の墓は『径百餘歩』と書かれているが、そのような墓は畿内にも九州にも見当たらない」
だから「魏志倭人伝はデタラメ」とする考古学者の常識は重大な見落としをしているのではないだろうか……≫そして、河野さんは大隅半島にある唐仁(とうじん)古墳群の大塚(前方後円墳)を卑弥呼の墓と特定している。
本の表紙には、露出している大塚の石室の天井石の写真がある。
後本の帯には河野さんの思いが綴られている。
≪魏志倭人伝は単なる旅行記だ。複雑なはずがない
単純に読めば「邪馬台国」は簡単にみつかる
「邪馬台国」は天皇家のふるさと(日向)だ≫どのような考察で大隅半島にたどり着いたのであろうか。
文献での論拠は、考古学的な根拠はなんであろうか。
他の研究者が見落としていた視点は如何なるものであろうか。
どんな考察、検証が書かれているのか、興味が募る。早速、拝読したい。
著作の最後に河野さんの「おわりに」がある。原始時代の「倭」から現代の「日本」まで、ざっと2000年の激動の歴史がある。
そのなかで、日本国家が殲滅の危機にあう大戦があった。
その時、河野さんが特定した倭国開始の地が日本の終焉の地になりそうになったという。
≪(米軍の)沖縄に続く本土上陸作戦の候補地は、
志布志湾から本論の主舞台である邪馬台国、
肝属(きもつき)平野への上陸であった。
ヤマトの郷愁の地が軍靴に踏み躙られようとしていた。≫それが、天皇の決断で救われたという。
河野さんは、不思議な時の流れで結ばれた大隅半島の地に思いを馳せ、表紙を描いたという。
そこには激しく逆巻く波とその波に洗われる砕けた戦闘機の姿がある。
≪戦後70年、南洋の小島の海辺で儚くも消えてゆく戦の跡を描いた≫と河野さんは私的総括をしている。
河野さんによる著作の概要はこちらです。
写真 左 :『予言 大隅邪馬台国』(2008・牧歌舎)の表紙、帯共。写真 右 :『古日向 邪馬台国』(2016・牧歌舎)の表紙。
|