高島俊男著の『お言葉ですが… 「それはさておき」の巻』(1998・文藝春秋)という本がある。本には帯があり、興味深いコピーが書かれている。
≪次の「お言葉」、どこがおかしいのでしょう?
世界を震撼させた十日間、基礎はすべからく重要だ、「孫子の兵法」全編発見!、……≫高島氏は東大大学院で中国文学を専攻された方である。
本書は、『週刊文春』連載の痛快辛口コラム集の第2弾である。
私が気になったのが、「孫子の兵法」全編発見である。
これのどこが、おかしいのであろう?わたしにはわからない。
さっそく、読んでみる。
高島氏によると、孫子の記事が1996.9.19の読売新聞大阪版に掲載されたという。
そこに見出しが四つある。
「孫子の兵法」全編見つかる 中国・春秋時代の書
人民日報が報道 実在巡る論争に幕?「孫子の兵法」とは、春秋時代完成したといわれる兵法書である。
記録では「全編82編」とされているが、13編しか伝わっておらず、実在をめぐる論争が続いてきたという。
読売新聞の記事を紹介する。
≪「孫子の兵法」完全版が発見されたのは、西安の軍需工場の技術者、張敬軒氏の家で、代々伝わってきたもの。
地元の歴史専門誌「収蔵」編集長の楊才玉氏が同誌に発見論文を発表した。(中略)
真偽についても七二年に山東省で発見された兵法書の竹簡と(今回発見の書を)照合した結果、
八十二編の記載内容で竹簡の欠落部分を補うことができたという。≫この記事を見て、私は感心する。”ヘェー!すごい発見だなあ!!”
この記事を読んで、高島氏はいう。”これはガセネタもいいところだ。最近のコシラエモノたること明白である”
高島氏は、発表論文も発見された「孫子の兵法」も見ずに断言をする。
その根拠はなんだろう。中国史料に詳しい氏ならではの情報でもあるのだろうか。
高島氏は明解に答える。
≪八十二編というのは、後漢時代の漢書藝文志にそうあるのである。
「実在を巡って論争」とはわけのわからぬ言いぐさで、
後漢のころに八十二編あったことはたしかなのだから論争もヘチマもない。
ただそれが、二千年もたってからそっくりそのままヒョイと出てきたりするはずがないのである。
あとの「山東省で発見」云々というのは銀雀山の前漢時代の墓から出た竹簡のこと。
これとも内容が一致したらしい。
銀雀山竹簡の詳細が公表されたあとで製造したシロモノたることを、みずから白状しているようなものだ。(中略)
まああの国の人は、二千年の昔より、無数のこうしたニセモノを作りつづけてきたのである。
古くは四世紀の古文尚書、新しくは二十世紀の京本通俗小説などは学者もだまされたが、
この「孫子完全版」なんぞは、話を聞いただけでウソとわかる幼稚な仕事だ。≫なるほど、いわれてみれば尤もな話である。
一呼吸置いて、冷静に見れば、ニセモノ作りがはっきりと見えてくる。
「新発見」に惑わされてはいけない。新発見、最古級はマスコミの常套句である。
この事件には後日談がある。
≪「孫子完全版」はデッチあげ、と中国のほうでも決着がついたようである。
中国社会科学院歴史研究所の李学勤所長がこれを鑑定し、
「全くの偽物」と断定した、と毎日新聞が報じている(96.10.26)。≫記事によれば、地元では、前から文書の真贋鑑定をしていたらしい。
鑑定結果を待てなかった『人民日報』と『読売新聞』の勇み足ということになる。
そういえば、最近、中国で三角縁神獣鏡が発見されたという報道があった。骨董市で入手したなど、それだけでウサン臭い。
日本の学者の研究が進めば進むほど、三角縁神獣鏡の情報が中国側に伝わり、精巧なものが作れるということになる。
新発見を真に受けて、だれかが高価な買い物でもしなければいいが、と他人事ながら心配をしてしまう。
新発見鏡の真贋判定は、「孫子完全版」のように中国の大学や研究所の先生方にお任せしたほうがいいと、私は思う。
中国の鏡専門の研究者から発言がなければ、新発見の情報は取るに足りない与太話ということである。
押っ取り刀で中国へ駆けつけるなんぞは、誰かさんの術中に嵌まるようなもんだ。
ご用心、ご用心!
挿図 上:「孫子の兵法全編発見」の記事(1996.9.19 讀賣新聞 東京版)。挿図 下:「新発見の孫子兵法は偽書?」の記事(1996.10.26 毎日新聞)。
追記:「世界を震撼させた十日間」と「基礎はすべからく重要だ」のおかしいところ。「震撼」は「ゆるがす」の意で、「何々を震撼する」と他動詞にもちいる。
「世を震撼する」が正しい表現である。「震撼させる」は誤用。
「すべからく」は「何々しなければならぬ」「何々するのがよい」などのときに使われる言葉で、
この場合「すべからく重視しなければならない」とでも続かなければおかしい。「重要だ」と続けるならば「すべて重要だ」とでもすべきである。
高島氏はいう。上記のような誤用がマスコミで使われ、だんだん日常化する。
そのうち識者の文章にもあらわれるようになる。辞書までが追従する。
目や耳が慣れ、おかしいと感じなくなる。
かくして、「誤用」が世を席巻する。
最近では「ヤバイ」がその例か。
高島氏は「お言葉ですが…」を書き続けることになる。
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