今月は、時間を作ってスクラップブックの整理をしている。1冊づつ点検していくと、接着剤がはがれていたり、日付の入っていないものが見つかったりする。
思わぬ記事に出くわすこともある。
いろいろな資料を探して第70号に書いたときは気がつかなかった福岡・今川遺跡の「有茎両翼式銅鏃」がそのひとつである。
探し物が自分の手のなかにあったとは、驚きである。
安本美典先生の記事も見つけた。東京新聞が1989(H1)年4月から一年間連載した「邪馬台国を求めて 検証吉野ヶ里遺跡」のなかにある。
その記事は、吉野ヶ里遺跡が一番注目されていたころのものである。
第43回 私の見方 安本美典氏 筑後川流域説 強まる
第44回 私の見方 安本美典氏 吉野ヶ里は華奴蘇奴国東京新聞の記者(記)の質問に安本先生(安)が答える形を取っている。
記 吉野ヶ里遺跡をごらんになっていかがでしたか
安 すごい遺跡であることは確かですね。(中略)
新聞や雑誌の切抜きを旧石器、縄文から平安まで、年代順に整理してみたんです。(中略)
その結果、集落―国―律令国家の郡への変遷が具体的な事物で追いかけることができた。
文字資料でなく、視覚資料でそれがイメージされる。なるほど、発想が卓越している。凡人には思いもよらない。
切り取った記事をスクラップブックにべたべたと貼って喜んでいる自分とは器がちがう。
記 吉野ヶ里遺跡は、弥奴(みな)国との見方がありますが、華奴蘇奴国も成立するわけでしょうか。
安 華奴蘇奴国の華は神崎のカの音をうつしたとみられます。
またンの音はmまたはnの音を含むとみられるが、カ(ka)とサ(sa)との、
ともにaを持つ音に挟まれているため、中国人の耳にはマまたはナに近い音に聞こえた可能性があります。安本先生の研究対象は、中国文献をはじめ、日本の記紀、考古学資料、それに言語学である。
守備範囲が広い、しかも深い。あらためて驚かされる。
安 興味があるのは、吉野ヶ里遺跡の外濠が、最後には西新式の土器や、
庄内式の土器のときに埋められた形になっていることです。
これらの土器は、弥生後期終末、卑弥呼のあとの時代のものとみられます。
吉野ヶ里の人々は、濠をうずめて、どこかに移動したのでしょうかね。
私の年代論では、ちょうどそのころ邪馬台国の東遷が行なわれたことになるのですが……。
記事左:「邪馬台国を求めて 検証吉野ヶ里遺跡 第43回
私の見方 安本美典氏 筑後川流域説 強まる」(1989.6.29・東京新聞)記事右:「邪馬台国を求めて 検証吉野ヶ里遺跡 第44回
私の見方 安本美典氏 吉野ヶ里は華奴蘇奴国(1989.6.30・東京新聞)
新聞記事の拡大図はこちらを【第43回】 【第44回】どうぞ。
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