館長だより 第70号
館長だより 第70号

館長のおもいつき(15)

2015/03/15

   ☆ 「弩」について (4)考古遺物 その2

 九州では、4遺跡5点以上見つかっている。


 (4)福岡県福岡市・クエゾノ遺跡

 1973〜1974年ごろに当時中学生だった茂和敏氏が福岡市早良区梅林で採集した銅鏃である。

 氏の記憶によると、宅地造成のため表土層が削られたところに、土質の異なる落ち込みが認められたという。

 ≪落ち込みはその断面がおおよそ方形をなし、床面はほぼ平坦であった。
  深さや幅、また埋土の状況については明確でないが、
  床面付近が鮮やかな赤色を呈していたことを記憶している。≫

 茂氏はその床面付近に露出していた銅鏃7点を一括採集した。

 銅鏃は断面三角形のもの(A類)4点、断面菱形のもの(B類)3点で、現存はA類2点、B類1点である。

 ≪(その1)表面は青銅色で光沢をもつ。
  均整のとれた形状をなし、断面はほぼ正三角形である。
  現存長3.2cm、幅1.0cm、高さ0.9cmを測る。
  青銅部分は長さ3.05cmであり、基部中の直径約0.6cmの
  鉄軸が0.15cm程突き出している。(中略)
  重量は7.92gを測る。箆被部にはわずかに赤色顔料の痕跡が認められる。≫

 ≪(その2)断面はほぼ正三角形であり、茎部も一体の青銅製である。
  現存長4.3cm、幅1.05cm、高さ0.9cmを測る。
  鏃身は長さ3.3cmであり、箆被部は各稜部を削り落として形成している。
  これは断面形が略六角形であり長さ0.5cm、幅、高さ共に0.8cmを測る。
  茎部は下端中央に突き出している台形の部分であり、
  不整な台形を呈している。(中略)
  茎部は長さ0.3cm、基部で0.5〜0.3cmを測る。(中略)
  重量は12.42gを測る。≫

 B類は中国漢代に類例がないというので、省く。

 本資料の時期について、吉留氏は、2点のことから推論をしている。

 第1点、本資料は採集遺物ではあるが、中国の戦国〜漢代に普及するいわゆる漢式三角(三稜)鏃である。

 第2点、発見場所が、土壙墓か、木棺墓といった埋葬遺構の床面に密着して副葬されていた可能性が高い。

 ≪出土遺構の帰属時期は明確にできないが、漢代以降、また楽浪郡設置以降という点を考慮し、
  さらに土壙墓、木棺墓がこの地域の埋葬形式として多く認められる時期を考え併せると、
  本資料は弥生時代後期に位置づけられる可能性が高いといえる。≫

 以上の引用は、「福岡市クエゾノ遺跡採集の中国製銅鏃について」(吉留秀敏・茂和敏 1992)による。

 (『古文化談叢』第27集 1992・九州古文化研究会 収録)

 茂氏は発見時、A類の銅鏃がもう2点あったという。

 クエゾノ遺跡では、最大4点の三稜鏃があったことになる。


 (5)福岡県那珂川町・安徳台(あんとくだい)遺跡

 安徳台遺跡は130軒を超える竪穴式住居からなる大集落跡と甕棺墓群からなる弥生時代中期の拠点集落である。

 集落からは製鉄工房跡や、径14mの弥生最大級の建物跡も出土している。

 甕棺の副葬品では、ガラス製勾玉・さいかん塞杆状ガラス製品・鉄剣・鉄戈・ゴホウラ貝釧などが出土。

 銅鏃は、弥生時代中期前葉から後期初頭にかけての第18号住居跡から出土している。

 西日本新聞(2003.6.10)に銅鏃が出土の記事がある。

 ≪(那珂川町にある)安徳台遺跡群の弥生時代中期後半の竪穴住居から、
  国内では珍しい前漢時代の銅製のやじり「三翼鏃」が出土した(中略)
  (三翼鏃は、)本来は三角すい状に先端がとがっているが、
  見つかったのは先端部分が欠けており、長さは2.5センチ。
  銅製の三翼鏃は、戦国時代から前漢時代にかけて中国に広まり、
  朝鮮半島から日本に伝わったと考えられている。(中略)
  (三翼鏃は)国内数カ所でしか見つかっておらず、
  狩猟や戦闘の実用品としてよりも、祭事用か珍しい品物として
  所持されていた可能性が高いという。≫

 新聞記事では、三翼鏃と言っているし、写真を見るとわずかに翼らしきものも感じられる。

 しかし、実測図をみるかぎり、私には三稜鏃のよう思える。

 

 (6)福岡県福津市・今川(いまがわ)遺跡

 今川遺跡は、玄界灘に面する海岸砂丘上にある径60mほどの環濠集落である。

 夜臼(ゆうす)式土器、板付T式土器など出土し、時期は弥生時代前期初頭と考えられている。

 鉄鏃、銅鏃、石鏃、銅ノミ、磨製石鏃、打製石鏃、勾玉、管玉などが出土している。

 銅鏃は、遼寧式銅剣を再加工した両翼鏃である。

 両翼鏃は、現存長5.55cm、現存幅1.23cm、最大厚0.93cm、重さ12.5gである。

 茎と鋒は原形を保つものの両翼は欠損している。

 両翼鏃は、弩専用の鏃として最も古く、中国・春秋時代に登場しているという。


 (7)長崎県壱岐市・原の辻(はるのつじ)遺跡

 原の辻遺跡は、壱岐島東部の南に位置する大規模環濠集落である。

 弥生時代前期末から古墳時代初期にかけて存続し、魏志倭人伝に登場する「一支国」の中心地とされている。

 遺跡からは中国鏡、戦国式銅剣、貸泉、トンボ玉、鋳造製品、三韓系土器、楽浪系の土器などが出土している。

 銅鏃は、1999(H11)年に不條地区の幡鉾川下流にある船着場近くの土壙(素掘りの穴)から出土した。

 大きさは、全長2.85cm、最大幅1.2cm、鏃身は一辺1.0cm、重さ3.5gで、茎部と翼部の一部欠損がある。

 形状は、わずかに膨らみを帯びた中空の円錐形の周囲に3枚の翼状の刃を縦に付けた三翼鏃である。

 茎部もは木や竹などの矢柄に差し込めるように下部が中空になっている。

 銅鏃の時期は、一緒に出土した朝鮮系無紋土器から弥生中期前半される。

 小田富士雄氏は≪当時朝鮮半島の楽浪郡に倭人が貢ぎ物を喪って訪れたことを考えると、
 楽浪郡との交流によって入手した可能性が大きい。≫と長崎新聞(1999.1.21)に発言している。

 上記のほかに、クエゾノ遺跡の報告文のなかに九州内での発見の記述がある。

 ≪福岡県夜須町内で三角鏃が、採集されているが、帰属時期は不明である。≫

 この文に注がある。

 ≪柳田康雄「青銅器の創作と終焉」『九州考古学』第60号(1986)≫

 この三角鏃のことは、柳田氏の論文のなかで紹介されているらしいが、私は未確認である。

 もうひとつ、臼井洋輔氏の論文に記述がある。

 「女木島(鬼ヶ島)洞窟の石切技法と年代考察」(2013・『文化財情報学研究』第10号所収)である。

 ≪最近の研究から、舶載銅鏃の可能性が高いものとして長崎県壱岐原の辻遺跡、(中略)   熊本県神水(くわみず)遺跡、(中略)などが報告されている。≫

 2013年という比較的最近の報告なので、従来の関連論文にない新発見かもしれない。

 現時点では、詳細不明である。

 この2例については、わかり次第追記する。


   (以下 次号)


  写真 7:クエゾノ遺跡・三稜鏃(1992『古文化談叢』第27集 より)

  挿図 8:クエゾノ遺跡・三稜鏃の実測図(1992『古文化談叢』第27集 より)

  写真 9:クエゾノ遺跡・三稜鏃(1992『古文化談叢』第27集 より)

  挿図 10:クエゾノ遺跡・三稜鏃の実測図(1992『古文化談叢』第27集 より)

  写真 11:安徳台遺跡・三稜鏃(2003.6.10『西日本新聞』より)

  挿図 12:安徳台遺跡・三稜鏃の実測図(2007『観峰館紀要』第3号 より)

  挿図 13:今川遺跡・両翼鏃の実測図(2007『観峰館紀要』第3号 より)

  写真 14:今川遺跡・両翼鏃(ネット「むなかた電子博物館」田熊石畑遺跡と古代のムナカタ展 より)

  写真 15:原の辻遺跡・三翼鏃(ネット「原の辻WEBガイド」「三翼鏃」より)

  挿図 16:原の辻遺跡・三翼鏃の実測図(2007『観峰館紀要』第3号 より)

  挿図 17:原の辻遺跡・三翼鏃の復元図(2007『観峰館紀要』第3号 より)


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