館長だより 第69号
館長だより 第69号

館長のおもいつき(14)

2015/03/01

   ☆ 「弩」について (3)考古遺物 その1

 弩は強力な武器である。

 そのために、鏃も専用のものを使う。

 三翼鏃や三稜鏃などである。

 これらの鏃が九州・沖縄から岩手県までの広範囲の地域から発見されている。

 いっぺんにすべてを紹介できればいいのだが、それが思い通りにできない。

 現在、資料を探しながらの作業のため、わかったものから順次紹介する。

 まず、沖縄県である。全体で3点の銅鏃が見つかっている。


 (1)沖縄県うるま市・宇堅(うけん)貝塚

 沖縄本島の中部東海岸で、1989(H1)年に火力発電所の建設に伴う発掘調査が行なわれた。

 調査地区は具志川市(現うるま市)宇堅貝塚群の岩地原(がんぢばる)地区にあたる。

 そのA地点の第W層の貝砂層より、銅鏃が出土している。

 第W層は南九州の弥生土器(入来式土器・山ノ口式土器)及び、その影響を受けた在地系の土器の出土が多い土層である。

 入来(いりき)式土器・山ノ口式土器はどちらも弥生時代中期の土器である。

 沖縄では稲作の弥生時代はなく、その時代は主に漁撈を中心とした生業が考えられている。

 そのために貝塚時代後期、あるいは弥生・古墳並行時代と呼ばれている。

 銅鏃の他にゴホウラ製貝輪2点、イモガイ製貝輪6点、方格規矩鏡破片3点などが出土している。

 前の調査(1979年)では、ガラス玉、板状鉄斧、砥石、免田(めんだ)式土器(弥生後期)などが出土している。

 今回、遺構としては貝の集積遺構が4基確認されているが、住居址等は確認されていない。

 ≪(銅鏃の)刃の形態は断面が正三角形の三角錐を呈する。
 各面に1.9×0.7cmの窪みが認められ、先端は鋭利に尖っている。
 又、茎の部分は鉄製で錆の付着がある。
 法量は長さ3.9cm、幅1.4cmで重量は8gを計る。≫

 (大城剛「沖縄県具志川市宇堅貝塚群発掘調査概要」1990・『考古学ジャーナル』322)

 銅鏃は「報告概要」では、漢式三角鏃(三翼鏃)と書かれているが、形状からは三稜鏃である。

 三稜鏃は三角鏃とも三角錐鏃とも呼ばれている。

 今回の出土銅鏃は三稜鏃の各面に抉りがあり、三翼鏃との中間的な形状をしている。

 兵庫県・会下山(えげのやま)遺跡の三翼鏃とは形状が異なるので、私は個人的に、抉り入り三稜鏃と呼ぶことにする。


 (2)沖縄県読谷村・浜屋原(はまやばる)貝塚

 読谷村(よみたんそん)西海岸にある浜屋原貝塚はA〜Dの4地点からなる貝塚群である。

 2005(H17)年に、B地点の道路工事に先立って発掘調査が行なわれ、銅鏃が出土している。

 琉球新報(2006.2.5)に記事がある。

 ≪浜屋原貝塚B地点の発掘調査で4日までに、沖縄貝塚時代後期に当る
  約2000−1500年まえの青銅製矢じり「漢式三翼鏃」が出土した。(中略)
  漢式三翼鏃は、地下50-100センチの砂地の層から見つかった。
  長さ3.6センチで三角すいの形をしている。
  また、(大型の巻貝の)ゴホウラは1ヵ所に集められた状態で見つかった。
  ゴホウラの中央には人為的に穴が空けられており、
  腕輪などの装飾品の素材として保管されていたとみられる。≫

 新聞の記事から鏃は、三角すい形の三翼鏃となるが、写真からは宇堅貝塚の銅鏃と同じよう見える。

 鏃の実測図を見ていないので、断定はできないが、抉り入り三稜鏃と思われる。


 (3)沖縄県八重瀬町・新里洞穴(しんざとどうけつ)遺跡

 新里洞穴遺跡は、沖縄本島南部の島尻郡八重瀬町にある。

 弥生〜平安並行時代の遺跡で、石斧や土器などが採集されている。

 2000(H12)年頃、第二次大戦時の遺物探査を行なっていたメンバーの一人が岩の間から銅鏃を採集したという。

 発見場所は洞穴入口から100mほど入った所で、周辺は大小の岩が散在する。

 堆積土はなく、銅鏃と同時代の土器などの遺物は確認できなかったという。

 銅鏃は寄贈され、現在沖縄県立博物館が保管している。

 銅鏃の解説は、その報告論文に詳しい。

 ≪本資料は青銅製の鏃及び、鏃と矢柄の接続部である鉄製の茎とで構成される。(中略)
  大きさは、全長が72mmで、そのうち鏃の長さが33mm、最大幅13mm、総重量は14.6gとなっている。
  鏃の横断面は正三角形で、角は鋭く尖る。
  各面には、最大幅6mm×長さ22mmで笹の葉形の浅い抉りがある。
  鏃の根元断面は六角形を呈し、その端部にソケット状に鉄製の茎が差し込まれている。≫

(仲座久宜・羽方誠「八重瀬町新里洞穴遺跡で採集された銅鏃」2011・『沖縄県立博物館紀要』bS)

 報告者は、前2点の銅鏃と形態も法量も類似しているので、採集品ではあるが、本資料も同時代の漢式銅鏃と考えられると記述している。

 私は本資料も抉り入り三稜鏃と呼ぶ。

 ≪台湾の台北縣八里郷に所在する十三行遺址から出土した銅鏃(臧・劉2001)は、
  笹の葉形の抉りを持っていて、断面形や全体の形・大きさも沖縄の資料とよく似ている。
  この点から銅鏃の沖縄への移入ルートを想定すると台湾を
  経由したことも考慮する必要がある≫と提言している。


 弩用の銅鏃には、鏃部分の断面が最後まで三角形の三稜鏃や翼が先端まである三翼鏃などがある。

 沖縄で見つかった銅鏃は奇しくも三稜鏃の各面に抉りの入った同じ形状である。

 このタイプが日本で普遍的にみられるものなのか、中国ではどのような出土分布をみせているのだろうか。

 現時点では不明であるが中国南部地域に多く見られるものならば、新里洞穴遺跡の報告者の想定の可能性が高くなると思われる。

 とにかく、出土例の数を増やすことに専念する。


   (以下 次号)


  写真 1:宇堅貝塚・抉り入り三稜鏃の出土状況(1990『考古学ジャーナル』322 より)

  写真 2:宇堅貝塚・抉り入り三稜鏃(2008『博物館企画展・沖縄 考古学ニュース』より)

  挿図 3:宇堅貝塚・抉り入り三稜鏃の実測図(1990『考古学ジャーナル』322 より)

  写真 4:浜屋原貝塚・抉り入り三稜鏃(2008『博物館企画展・沖縄 考古学ニュース』より)

  挿図 5:新里洞穴遺跡・抉り入り三稜鏃の実測図(2011『沖縄県立博物館紀要』4 より)

  写真 6:新里洞穴遺跡・抉り入り三稜鏃(2011『沖縄県立博物館紀要』4 より)


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