館長だより 第68号
館長だより 第68号

館長のおもいつき(13)

2015/02/08

   ☆ 「弩」について (2)史書にみえる弩

 弩に関する記述のある史書、及びその考察は、大日方克己氏の「日本古代における弩と弩師」に詳しい。

 以下、弩の出てくる史書は、主に大日方氏の論文をもとに記述する。


 年代の古い順にみると、史書での初出は『日本書紀』である。

 『日本書紀』は舎人親王らの撰で、養老4年(720)に完成。漢文・編年体をとり、全三十巻である。

 4ヶ所に「弩」の文字が出てくる。

 (引用は訓読文≪ ≫・原漢文( )とも 日本古典文学大系『日本書紀 下』(1965・岩波書店)による。)

 @ 巻19 欽明23年(562?)6月の条

   ≪而(しか)るに新羅、長戟(ながきほこ)強弩(つよきゆみ)して、任那を凌(しの)ぎ蹙(せ)め、≫

   (而新羅、長戟強弩、凌蹙任那)

 A 巻22 推古天皇26年(618)8月癸酉の条

   ≪故(かれ)、俘虜(とりこ)貞公(ていこう)・普通(ふとう)、二人、及び鼓吹(つづみふえ)
   ・弩(おほゆみ)・抛石(いしはじき)の類十物(とくさ)、并(あはせ)て土物(くにつもの)
   ・駱駝一匹を貢献(たてまつ)る。≫

   (故貢 俘虜貞公普通二人、及鼓吹弩抛石之類十物、并土物駱駝一匹)

 これは高句麗が隋の攻撃を打ち破り、倭国に献上品を贈った記事で、そのなかに弩がある。

 つまり、弩は珍しく貴重品であったが故に献上されたのであって、広く配備された兵器ではないということになる。

 B 巻28 天武天皇元年(672)7月丙午の条

   ≪鉦皷(かねつづみ)の声(おと)、数十里(あまたさと)に聞ゆ。列(つらなれる)弩(ゆみ)
   乱れ発(はな)ちて、矢の下ること雨の如し。≫

   (鉦皷之声、聞数十里。列弩乱発、矢下如雨)

 C 巻29 天武天皇14年(685)11月丙午の条

   ≪大角(はら)・小角(くだ)・鼓・吹(ふえ)・幡旗(はた)、及び弩(おほゆみ)
   ・抛(いしはじき)の類は、私の家(やけ)に存(お)くべからず。咸(ことごとく)に
   郡家(こほりのみやけ)に収めよ。≫

   (大角小角、鼓吹幡旗、及弩抛之類、不応存私家。咸収于郡家)

 これは兵器の私家所有禁止と郡家への没収を命じたもので、そのひとつに弩がある。

 これらについて大日方氏はこう述べている。

 ≪『日本書紀』にみえる弩は、漢籍からの引用または中国の弩を示すものであり、天武十四年の
  収公規定も、弩が国家によって独占されるべき位置づけにあることをうちだしたものとみなされる。
  倭国あるいは日本列島において弩が存在し、使用されたことを直接示すものでないといえる。≫

 漢籍から引用とは、@は『梁書』にある「景、長戟強弩、凌蹙朝廷」、Bは『後漢書』の「鉦皷之声、聞数百里。(中略)積弩乱発、矢下如雨」をいう。

 大日方氏は、『日本書紀』における記述は他から引用であり、当時の日本の実情を記述したものではないとされている。

 そうではあっても、史書に筆者が弩、強弩の文字を用い、読む者もそれらを理解していたと考えられる。

 配備にかかわらず、720年までには日本では、弩がいかなるものかは認識されていたことはまちがいないと思われる。


 次は『養老律令』にある。

 『養老律令』は、大宝律令(701年成立)に続く律令として天平宝字元年(757)に施行された基本法令である。

 律10巻12編、令10巻30編で構成されている。

 養老律令にある多くの条文は、大宝律令にものあったと推測されるが、大宝律令の原文は現存していない。

 その一部が逸文として残っているに過ぎないので、弩に関する確実な条文は養老律令ということになる。

 (引用は訓読文・原漢文とも 『日本思想大系3 律令』(1976・岩波書店)による。)

 @ 第17 「軍防令」9弩手の条

   ≪凡そ弩手(おほゆみのて)教習に赴かむ、及び征行(しゃうぎゃう)せむ、
   其の弓箭(くぜん)科(おほ)すべからず。≫

   (凡弩手赴教習、及征行、不須科其弓箭)

 A 第17 「軍防令」10軍団の条

   ≪凡そ軍団は、一隊毎に、強く壮(さか)んならむ者二人を定めて、
   分ちて弩手(おほゆみのて)に充てよ。均分して番に入れよ。≫

   (凡軍団、毎一隊、定強壮者二人、分充弩手、均分入番)

 B 第17 「軍防令」11衛士の条

   ≪即ち当府にして弓馬教へ習はし、刀用ゐ、槍(ほこ)弄(と)り、及び弩(おほゆみ)発ち、
   石抛(はう)せしめよ。≫

   (即令於当府、教習弓馬、用刀、弄槍、及発弩、抛石)

 C 第17 「軍防令」44私家の条

   ≪凡そ私家(しけ)には、鼓鉦(くしょう)、弩(ど)、牟(む)、サク(矛偏に肖 しゃく)、
   具装(ぐしゃう)、大角(だいかく)、少角(せうかく)、及び軍幡(ぐんばん)有ること得じ。
   唯し楽鼓(がくく)は禁(いさ)むる限に在らず。≫

   (凡私家、不得有鼓鉦、弩、牟、サク、具装、大角、少角及軍幡。唯楽鼓不在禁限)

 D 第7 「賊盗律」28盗禁兵器の条

   ≪凡そ禁兵器を盗めらば、徒(づ=労役)一年半。弩・具装(ぐしゃう)は、徒(づ)二年≫

   (凡盗禁兵器者、徒一年半。弩、具装者、徒二年)

 大日向氏は、≪日本古代の律令国家でも(唐代の中国と同様に)弩は、軍防令に弓馬、刀、
 槍と並ぶ武装として、また私蔵を禁止され国家によって独占されるべき重要な武器の一つとして
 規定されていた。≫としている。

 考古資料の出土状況(後述)を見るかぎり、七世紀までは実用品としての弩は列島社会では
 ほとんど存在していなかったとみてよいとして、

 ≪唐律令を継受し軍団制を構築するなかで、隋唐で重要な武器だった弩もまず法規定上受容し、
 実際に製造、配備されていくのは八世紀以降とみた方がよさそうである。≫とのべている。


 その次は『続日本紀』である。

 『続日本紀』は『日本書紀』に続く勅撰史書である。

 菅野真道らが延暦16年(797)に完成し、全40巻から成る。

 (引用の訓読文は『訓読 続日本紀』(1986・臨川書店)による。)

 @ 巻13 聖武天皇天平12年(740)9月戊申の条

   ≪広嗣は遠珂郡(をかのこほり)の家に於きて軍営を造り、兵(つはもの)と
   弩(おほゆみ)とを儲け而して烽火を挙げて国内の兵を徴発す≫

   (広嗣於遠珂郡家。造軍営儲兵弩。而挙烽火 徴発国内兵矣)

 A 巻13 聖武天皇天平12年(740)10月壬戌の条

   ≪佐伯の宿祢常人(つねひと)・阿部の朝臣虫麻呂、弩(いしゆみ)を発なちて
   之を射る。広嗣が衆却(しぞ)きて河の西に列(つらな)る≫

   (佐伯宿祢常人・阿部朝臣虫麻呂、発弩射之。広嗣衆却到於河西)

 これは左遷された藤原広嗣が天平12年8月に筑前国遠賀郡で挙兵したときの記事である。

 朝廷軍、反乱軍ともに弩を装備していることがわかる。

 大日方氏は、≪このように双方が弩を用いたと記述されており、それは節度使体制下で
 (弩が)整備されたものとみてよい≫とのべている。

 節度使とは、律令官制の不備を補うために、8世紀に軍団を強化目的の役職をいう。

 1999年に、宮城県の伊治(いじ)城跡から弩機の実物が発掘で出土している。

 ≪本品は「機」と称する弩の発射装置部分が残存したもので、伊治城跡外部の兵舎とみられる
  奈良時代末葉の竪穴住居跡から出土した。
  この時期、伊治城は「伊治君呰麻呂(あざまろ)の乱」(780年)の舞台となっており、
  今回の発見は、まさに蝦夷との戦いに用いられたことを実証する貴重な成果となった。(真山悟)≫
  (2000・『発掘された日本列島2000』)

 蝦夷に対する備えとして東北に置かれた城柵で、確実なところは出羽柵(後の秋田城)が『続日本紀』和銅2年(709)7月の条に出てくる。

 その後、多賀柵(724年設置)、玉造柵(737頃)、色麻柵(737頃)、新田柵(737頃)、牡鹿柵(737頃)、雄勝城(759)、桃生城(759)、伊治城(767)などが設けられている。

 城柵の設置により、各城柵には人員が派遣され、軍備も強化されていく。

 8世紀に東山道の城柵に弩が配備され、実践で活用されていったということになる。

 ≪天平四年(732)、新羅との緊張関係から節度使が東海、東山道、山陰道、西海道に設置された(『続日本紀』同年八月丁亥条)≫という記事がある。

 同様の動きが各地にも行なわれたと思われる。


 以下、他の史書を概観する。

 『類聚三代格』(るいじゅさんだいきゃく)

 平安時代(恐らく11世紀)に書かれた法令集。著者は不明。全20?巻。

 (引用の原漢文は『国史大系25類聚三代格』(1965・吉川弘文館)による)

 @巻第18 軍毅兵士鎮兵事 天平勝宝5年(753)10月21日太政官符

   <兵士、国府に集まりし日、(中略)(教習は)剣を撃ち、槍(ほこ)を弄(と)り、
   弩(おほゆみ)発ち、石抛(はう)せるを兼(あわ)す。>

   (兵士集国府日。(中略)(教習)兼撃剣弄槍、発弩抛石)

 大日方氏は、≪兵士が国府に集合したとき(中略)しばらくは軍団には弩が配備され続け、
 訓練もされていたらしい≫とのべている。


 『続日本後紀』

 文徳天皇の勅命により、貞観11年(869)に完成。編年体、全二十巻。

 (引用は訓読文・原漢文とも『続日本後紀 上』(2010・講談社学術文庫)による。)

 @ 巻第4 承和2年(835)9月乙卯の条

  ≪新しい型の大弓を作った。四方に射かけられるよう、回転して矢を発しやすくした。≫

   (自製新弩、縦令四面可射、廻転易発)

 これは弩を回転台の上に載せ、発射向きを容易に変えられるようにしたということらしい。


 『日本三代実録』

 藤原時平、菅原道真らにより延喜元年(901年)に成立。編年体、漢文、全50巻。

 (引用の訓読文は『訓読 日本三代実録』(1986・臨川書店)、原漢文は『国史大系4日本三代実録』(1966・吉川弘文館)による)

 @巻13 貞観8年(866)7月15日丁巳の条

   ≪共に新羅国に渡り、兵弩器械の術の造るを教え、還(もど)り来たりて将に対馬島を撃ち取らんとす。≫

   (共渡入新羅国。教造兵弩器械之術。還来将撃取対馬嶋。)

 これは、肥前国の一部郡司らが日本の国家機密である造弩の製造法を新羅側に教えて、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした事件の記事である。

 A巻39 元慶5年(881)4月25日壬寅の条

   ≪出羽国元慶二年(878)に夷虜の為に焼き盗まれしもの、穀穎(もみかひ)四十二万五百一束六把八分六毫、
   (中略)弩(おほゆみ)廿九具、手弩(しゅど)一百具、≫

   (出羽国元慶二年為夷虜所焼盗、穀穎四十(原文は卅に|を加えた字)二万五百一束六把八分六毫、
   (中略)弩廿九具、手弩一百具、)

 これは元慶(がんぎょう)の乱の際に反乱軍(蝦夷)が秋田城から食料や武器を盗んだものの記録である。

 1999年10月に秋田城跡の発掘調査で「弩」と書かれた二例目の墨書土器が前年に続いて発見されている。

 ≪調査事務所は「城内にいた弩の使い手たちか、保管を担当した者たちの専用の食器」とみている。
  当時の秋田城に「弩」があったことは古文書に記されていたが「存在を裏付ける貴重な史料」と
  位置づけている。≫と『秋田魁新報』1999.10.8夕刊にある。


 『延喜式』

 醍醐天皇の命により編纂された格式(律令の施行細則)。

 延長5年(927)に完成、康保4年(967)より施行。全50巻、約3300条。

 F 巻47 左右兵衛府

 造弩一具と書かれているという。(斎藤忠『日本考古学史辞典』1984・東京堂出版)

 残念ながら、『新訂増補 国史大系 延喜式 後編』(1995・12刷・吉川弘文館)で「巻47 左右兵衛府」を見たが、私にはみつけられなかった。


 他の史書にも「弩」は見られるが、日本の古代において弩の配備、実戦の時期がつかめたので以降は省略する。

 大日方氏の述べられている考察を再度まとめてみる。

 ≪『日本書紀』にみえる(7世紀頃の)弩は、漢籍からの引用または中国の弩を示すものであり、天武十四年の
  収公規定も、弩が国家によって独占されるべき位置づけにあることをうちだしたものとみなされる。
  倭国あるいは日本列島において弩が存在し、使用されたことを直接示すものでないといえる。≫

 ≪(『続日本紀』の藤原広嗣の乱の記事のように)双方が弩を用いたと記述されており、
 それは節度使体制下で整備されたものとみてよい。≫

 ≪唐律令を継受し軍団制を構築するなかで、隋唐で重要な武器だった弩もまず法規定上受容し、
 実際に製造、配備されていくのは八世紀以降とみた方がよさそうである。≫

 大日方氏は7世紀以前は弩が広く存在していなかった根拠として、考古資料をあげている。

 つぎに、考古資料について調べてみる。


   (以下 次号)


  写真 1:日本書紀 寛文9年(1669)版の木版本(ネット「北さん堂雑記」 より)

  写真 2:続日本紀 明暦3(1657)跋本 早稲田大学図書館蔵(ネット「古典籍総合データベース」 より)

  写真 3:「弩」の「機」 宮城県・伊治城跡から出土(『発掘された日本列島 2000』2000・朝日新聞社 より)

  写真 4:「弩」墨書土器 秋田城跡から出土(『秋田魁新報』1999.10.8夕 より)


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