館長だより 第67号
館長だより 第67号

館長のおもいつき(12)

2015/01/25

   ☆ 「弩」について (1)「弩」形木製品

 「魏志倭人伝」に倭の弓に関する記述がある。

 ≪兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鉄鏃或骨鏃≫
 (兵は矛・盾・木弓を用う。木弓は下に短く上に長し。竹箭に或いは鉄鏃或いは骨鏃。)

 「魏志倭人伝」には、中国で三国時代に盛んに使われていた「弩」について何も書かれていない。

 弩とは、木製の台座に弓を直角に固定し、弦を張り、矢を置き、引き金を引いて、矢を発射する武器である。

 ≪(中国では、)春秋時代に楚の人が用いたといわれているが、
  遺物は戦国中期以後のものしか知られていない。(中略)
  戦国後期から秦漢時代に重要な武器になる≫
  (『日本大百科全書』1994・小学館)

 秦始皇帝の兵馬俑坑からは、跪射弩兵俑や立射弩兵俑が出土している。

 2014年2月にほぼ完全な弩が発見されている。

 『三国志』には袁紹が、騎兵1万、1000張の強弩隊などを用い、界橋の戦いで公孫サンを破ったとある。

 諸葛孔明は連射が可能な連弩の技術改良を行ない「諸葛弩」を生み出している。

 そいうえば、赤壁の戦いを描いた映画「レッドクリフ」でも、並列した兵士がいっせいに弩で矢を射っている場面があった。

 中国ではこれほど弩は戦闘用武器として重要視されているが、日本ではどうであったのだろうか。

 中国の情勢に強い関心をもっている倭人が弩を知らないとは思えないのだが……。

 日本の考古学の研究者たちからは、日本における「弩」については注目されていなかった。

 それは遺物として、日本では見つかっていなかったからである。

 1999年5月12日の『山陰中央新報』がビッグニュースを伝えている。

 ≪国内初の「弩」形木製品 出雲・姫原西遺跡から出土 弥生の戦争観覆す可能性≫

 やはり、弥生時代の倭人も弩を知っていたのである。

 出土したのは、臂(ひ)と呼ばれる弩の本体部分で、ライフル銃の形をしている。

 弩形木製品は、川跡とみられる堆積層から出土し、時期は弥生時代終末期と考えられている。

 全長は91cmで、先端に弓を取り付ける直径2cmの穴があいている。

 調査した人は≪全体にきゃしゃで武器としての実用性はないが、弩を模して作った可能性が高いと判断した≫と記事にある。

 つまり、実用には向かず、祭祀や儀礼用に使われたということらしい。

 九州大・宮本一夫助教授の話。

 ≪銅剣などと同様、中国で使われた武器を模して、古代の出雲人が権威の象徴にしたのではないか。(以下略)≫

 岡山大・松木武彦助教授の話。

 ≪山陰地方では弥生末期に中国製とみられる長い刀が流行しており、実践用の弩も中国から輸入して使っていたかもしれない。(以下略)≫

 研究者の間で見解が分かれたためか、「弩」形木製品を基に復元品をつくり2度の発射実験をしている。

 一度目は2000年3月で、矢の飛距離は30mという。

 二度目は2003年1月で、改良・補強を加え、100mを記録と新聞が伝えている。

 現在、日本でおこなわれている弓技における遠的射場の射距離が60mなので、100mは充分な飛距離である。

 飛距離からは、実用品と考えてもいいと思われる。

 ≪しかし、(発射実験をした造形作家の)藤田丈さんは
  「(弩形木製品は)弓を通す穴が小さく耐久性に問題があるなど、
  武器としての実用性には疑問が残る」と指摘。(中略)
  (これをふまえて)島根県古代文化センターの松本岩雄主査は
  「楽浪郡で作られた物ではなく、中国製の本物の弩を見た人物が
  まねて出雲で作った可能性が高い」と分析している≫(『山陰中央新報』・2003.1.24)

 「東アジアの弩と出雲市姫原西遺跡出土の弩形木製品」(足立克己・藤田丈・松本岩雄・三宅博士)という論文がある。

 そこには、実用とするには機能上の4つの問題点があると書かれている。

 ≪第一に、中国出土の弩臂は全長50〜60cm代であるのに対して、弩形木製品は90cmと著しく長く、しかも細身である。
  第二に、弓を装着する部分が環状を呈し、弓を通す穴が小さいため大形の弓、しかも中国のような複合弓を装着できるものではない。
  第三に、先端の環自体が矢の発射に障害となる。
  第四に、弩機を挿入する孔付近の矢槽が深いため、弦を牙に直接かけることが困難である。
  (第四点の解決策として復元品では弦に補助弦をつけ、それを牙に掛けている。)≫
  (『武器の進化と退化の学際的研究 ―弓矢編』2002・国際日本文化センター 所収)

 弩形木製品のほかに、姫原西遺跡からは祭祀用具と思われる多くの木製品が出土している。

 戈形木製品、舟形木製品、赤色顔料を塗った竿、黒漆を塗った刀状木製品、琴板と思われる日月が彫られている板、
 弩の矢として使われた可能性がある断面が三角形の木鏃などである。

 多くの祭祀用木製品が出土していることから、弩形木製品も祭祀用具のひとつと考えられることも、実用品か否かの判断に影響を与えていると思われる。

 これで、弥生時代における弩の武器としての実用はひとまず、確認されなかった。

 しかし、本当に弥生時代に弩は実用されなかったのであろうか。

 「弩」は、織田信長が長篠の戦で武田の騎馬隊を壊滅させた鉄砲にも匹敵する強力兵器と私は思う。

 日本の歴史上に弩が活躍したはなしは聞かないが、なぜだろう。

 では、これ以降は弩がなかったかというと、弩に関する日本の記録は少なからずある。

 つぎに、文献での「弩」を調べてみる。

     (以下 次号)


  写真 上:秦弩(復元模型) (図録『秦の始皇帝とその時代展』1994 より)

  挿図 中左:(『山陰中央新報』1999.5.12 より)

  挿図 中右:(『山陰中央新報』2003.1.24 より)

  写真 下:姫原西遺跡出土品をもとに復元した弩(『古代出雲歴史博物館 展示ガイド』2007 より)


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