伯耆古代の丘公園から再び松江市へもどる。今日の宿泊地は米子であるが、その前に美保神社へむかう。
(25) 美保神社(鳥取県松江市)車は美保湾に沿って、弓ヶ浜半島を北上する。
境港の境水道大橋を渡り、島根半島東端にある美保神社に着く。
弓ヶ浜半島も島根半島も、『出雲風土記』にある国引き神話にでてくる。
各所の余った土地を裂き引き寄せるのに使った綱がそれぞれの半島になったという。
美保神社は、『延喜式』に書かれている式内社であり、社殿は、山を背に海に向かって開かれている。
重要文化財である荘厳な本殿は大社造の左右二殿連棟の特殊な形式の美保造である。
主祭神は右殿に事代主神(ことしろぬしのかみ)と左殿に三穂津姫命(みほつひめのみこと)が祀られている。
事代主神は、大国主神の子であり、いわゆるゑびす様で、漁業・商業をはじめ生業の守護神である。
三穂津姫命は大国主神の后であり、高天原から稲穂をもたらした農業・子孫繁栄の守り神である。
石の鳥居をくぐり、石段をのぼり、石畳の坂を上がり、神門を通り抜け、拝殿に着く。
拝殿のしめ縄は、出雲大社同様に大きい。ただし、縄のしめ方は大社とは逆である。
本殿の造りは二つ並立ではあるが、大社造りであるのにしめ縄だけが異なる。
息子や后の神社なので、変えたのであろうか?
なぜだか、ちょっと気になった。
それにしても、出雲地方の神社は、ほかの地方とは異なる独特の様式、雰囲気を持っている。
美保神社の祭礼に、出雲の国譲り神話を象徴するような「青柴垣神事(あをふしがき)」と「諸手船神事(もろたぶね)」がある。『古事記』によれば、天照大神から遣わされた建御雷神(たけみかづちのかみ)は、国譲りを大国主神にせまる。
大国主神は、返事を自分の子の事代主神に託す。
この時、美保の岬で釣りを楽しんでいた事代主神は、諸手船で急ぎもどる。
これが、「諸手船神事」となる。
稲佐の浜に着いた事代主神は、承諾し、乗っていた船を傾け、天逆手(あめのむかへで)を拍つ。
船は青柴垣と化し、その中に事代主神は籠もる。
これが、「青柴垣神事」となる。
神事がいつ頃からはじめられたかは知らないが、今も地元の人たちの心の中に古代が生き続けていることが驚きである。
また、美保の地は、大国主神が少彦名命と出会ったところと「美保神社略記」の沿革にある。
≪(美保関は)大國主神がその神業の御協力の神少彦名命をお迎へになった所≫
地図を見ると、美保関港より少し西の海崎港に少彦名命を祀る天神社がある。
少彦名命は医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造などの神として信仰されている。
少彦名命を祀る神社はさほど多くはないが、全国にある。
ちょっと、不思議なのは、そのなかのいくつかが「天神社」と呼ばれていることである。
東京の穴澤天神社、京都の五條天神宮、大阪の桑津天神社などである。
天神といえば、菅原道真であるがこれらの神社の主祭神は少彦名命である。
大国主神が一緒の場合もある。
菅原道真は本殿や相殿や摂社に、後から祀られている。
天神の本家は少彦名命なのだろうか。
話がちょっとそれたが、美保の地は出雲神話の中で、国引きの場所であったり、国づくりの出発地点であったりしている。
これらのことを思うと、美保の地は古代出雲にとって、見過ごすことのできない重要な場所であることがわかる。
この日は、米子市内にもどり、宿泊をした。夜、町へ出て、居酒屋で食べた白イカがとても旨かった。
写真 14:美保神社 鳥居(ネット「出雲國神仏霊場/巡拝路 8美保神社」より)写真 15:美保神社 拝殿(ブログ「原健 ブログ 美保神社」より)
写真 16:美保神社 二殿連棟の本殿(ネット「朗然の徒然 ゑびす総本社 美保神社」より)
写真 17:美保神社 拝殿のしめ縄(館長撮影)
写真 18:諸手船神事(ネット「美保関フォトコンテスト 諸手船神事 松井浩美(撮影)」より)
写真 19:青柴垣神事(ネット「神々のいるまち 美保関 青柴垣神事」より)
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