最近、やっと蔵書欄の中に「新聞記事の部屋」を開設できた。まず、『月刊 文化財発掘出土情報』を掲載する。
この本は、考古学の発掘調査に関する新聞記事をわずか2ヵ月後に月ごとにまとめて出版している。
現在、400号発刊されているなかで、我が館の蔵書はわずか74冊にすぎないが、なかなか興味深い記事がある。
そのひとつが、第210号(1999.11)の佐賀県・大友遺跡の記事である。
『佐賀新聞』の1999.9.15刊に大見出しがでている。
≪倭人伝「牛馬なし」の記述覆す 弥生の馬 初の全身骨 呼子・大友遺跡から出土
古墳時代渡来説に一石 頭部と下肢切断で埋葬≫記事を見る。
≪東松浦郡呼子町の大友遺跡を発掘調査している九州大学考古学研究室(宮本一夫助教授)は、
14日までに弥生中期(紀元前後)の埋葬坑から馬の全身骨を確認した。
骨は放射性炭素による測定など科学的な分析を経て年代が特定されるが、
同研究室では周辺遺構の状況などから骨が弥生中期の可能性が高いとみている。
考古学的には日本への馬の渡来は古墳時代というのが定説。
三世紀の日本社会を記録した中国の史書「魏志倭人伝」は「牛馬なし」としており、
”弥生の馬”の出土は全国初。
魏志倭人伝の記述など定説の見直しを迫る画期的な発見となる。≫驚きの記事である。
佐賀県の新聞には大々的に載ったが、関東ではどうだったのだろう。
私には見た記憶がない。もっとも、最近物忘れが激しいので、見なかったという自信もない。
記事には大友遺跡の説明もある。
≪大友遺跡は弥生時代早期から同中期(約2500年〜2000年前)の間に継続して営まれた墓地。
今回の学術調査では大陸から伝わった墓制といわれる支石墓から、
縄文以来の在来系の形質的な特徴を持つ人骨六体が出土。
稲作伝来期の渡来や大陸文化の受容の在り方を研究する遺跡として注目されている。≫大友遺跡は、弥生早期から始まり、大陸からの文化を受け入れやすい場所にある。
これは、もう決まりと思う。
『佐賀県新聞』を見ている人は少ないと思うから、早速、「館長だより」に書いて、知らせてあげよう。
いや、待てよ。
こんなにセンセーショナルな発見だから、十年以上も経つのに、どの本にも出てこないということは、おかしい。
ちょっと、確かめてからにしたほうがいいかもしれない。
そこで、ネットで調べると埋葬施設や人骨についてはいろいろ記述はあるが、馬については何もふれていない。
これは、どうしたわけだろう。
馬の全身骨が見つかったのは、発掘した年から、第5次調査とわかった。
このときの調査結果が報告書になって発行されていることを知った。
図書館で県内の横断検索をしてみたが、どこも蔵書していない。
二転三転して、結局、どうしても確かめたかったので、報告書を購入した。
『佐賀県大友遺跡 ―弥生墓地の発掘調査―』(2001・国立歴史民俗博物館)である。
なかに馬の年代測定の結果が書かれている。
「第9章 大友遺跡出土ウマ遺存体の年代測定 近藤 恵・中村俊夫・松浦秀治」
≪佐賀県東松浦郡呼子町の海岸部に位置する大友遺跡は、石棺墓や支石墓から
多くの弥生時代人骨が出土した遺跡として知られている。
1999年に宮本一夫らによって実施された第5次発掘調査の際、一体分と思われるウマの埋葬坑が発見された。
この墓坑(12号墓)は、弥生時代後期から古墳時代前期の箱式石棺を切っていることから、
少なくともそれ以降のものと考えられるが、詳細な時代は明瞭でなかった。≫そこで、研究員らは、放射性炭素年代測定およびフッ素分析による調査を行なう。
≪(その結果は、)現時点では暫定的ながら、大友遺跡12号墓埋葬ウマ遺存体は
近世のものである可能性が高いとの推察が得られるものと考えられる。≫残念!!馬は弥生時代のものでないことがはっきりした。
あわてて特種記事みたいに紹介しなくてよかった。
でも、『佐賀新聞』はこのことを知っているのであろうか。
報告書が出版された時点で、追跡記事を書いたであろうか。
鑑定結果が弥生時代だったら、大騒ぎで書いていたかもしれない。
ニュースバリューが低ければ、前にあれほど取りあげても、もう、全然顧みない。
新聞報道の宿命というか、限界なのであろう。
古代史を研究する場合、新聞記事は参考にしても、そのまま真に受けてはいけないということである。
安易に新聞記事を資料としては使ってはならないないと、肝に銘じなければならない。
大友遺跡の記事は、そのことを教えてくれている。
挿図 上:『佐賀新聞』1999.9.15の記事。(『月刊 文化財発掘出土情報』第210号(1999.11より)挿図 下:『佐賀県大友遺跡』(2001・国立歴史民俗博物館)の表紙。
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