館長だより 第58号
館長だより 第58号

館長の見聞録(28)

2014/08/31

   ☆ 弥生ってなに?! 歴博の講演会・企画展

 先日、佐倉の国立歴史民俗博物館に「歴博講演会」を聴きに行ってきた。

 講演は、藤尾慎一郎氏による「弥生ってなに?!」である。

 同館で開催されている企画展示にちなんでの講演会である。

 260席が満席で、急きょ別室に同時映像で見る追加の席が設けられたほどの盛況である。


 歴博の藤尾教授はいう。

 ≪紀元前10世紀に九州北部で水田稲作がはじまってから、
  3世紀に近畿で前方後円墳が作られるまでの約1200年間続いたのが弥生時代です。≫

 暦年代の判定には異論があるので、ここではふれない。

 その弥生時代が時期によって、場所によって、いろいろな様相を呈するという。

 ≪実は前4世紀の青森には土偶を使った祭りを行う稲作民がいました。
  彼らは縄文人でしょうか、弥生人でしょうか、それとも別の文化の民なのでしょうか。≫

 今回の企画展示「弥生ってなに?!」のメインテーマを聴衆に投げかける。

 今まで、弥生文化、弥生時代はどう考えられてきたのだろう。

 考古学の全集で、該当目次を概観する。

 1966年 『日本の考古学V 弥生時代』(和島誠一・他、河出書房新社)
  1:弥生時代社会の構造、2:弥生文化の発展と地域性、
  3:弥生時代の生活と社会(武器、埋葬、祭祀と信仰、住居と集落など)、
  4:周辺地域の情勢、5:弥生文化における諸問題。

 1969年 『新版考古学講座4 原始文化・上』(大場磐雄・鏡山猛・他、雄山閣)
  1:集落と住居、2:埋葬、3:金属器、4:木器、5:出土米、
  6:弥生式土器の編年、7:弥生式石器の編年。

 1973年 『シンポジウム 弥生時代の考古学』(大塚初重・他、学生社)
  1:農耕社会の成立、2:青銅器の問題、3:邪馬台国論の考古学的検討、
  4:農耕文化の東方への波及、弥生時代終末の様相。

 1975年 『古代史発掘4 稲作の始まり 弥生時代1』(佐原真・金関恕、講談社)
  1:弥生時代の社会、2:北辺文化の変遷、3:金属器の製作と技術、
  4:木工技術の展開、5:土器の製作と技術、6:石器の製作と技術、
  7:弥生時代の南西諸島。

 1986年 『日本の古代4 縄文・弥生の生活』(森浩一、中央公論社)
  1:西日本のムラの営みと変貌(戦の様相、生産と流通、まつりのあり方、など)、
  2:東日本の集落と祭祀(弥生時代東国のイエとムラ、弥生人の死の世界、など)、
  3:稲作技術と弥生の農業(稲作の伝来と系譜、稲作の伝播と拡散、など)。

 1998年 『シンポジウム日本の考古学3 弥生時代の考古学』(大塚初重・石野博信、学生社)
  1:弥生時代の暦年代をどうかんがえるか、2:弥生時代のはじまりはいつか、
  3:どんな集落の構造だったか、4:方形区画墓と集団墓・再葬墓とは何か、
  5:弥生の祭はどのように行われたか、6:生産と流通はどう展開したか、
  7:列島のクニグニはどのように交流したか、8:邪馬台国はどこまでわかったか。

 以上をみると一番多い項目は、「弥生時代の開始」についてである。

 これは、水田遺構、籾痕土器の出現がどこまで遡れるかである。

 弥生文化の要件として稲作、金属器、埋葬、祭祀、集落などがあげられている。

 弥生文化の伝播と拡散では、北海道・東北地方と奄美・沖縄などの南西域の諸島群の情勢の問題がある。

 社会体制としては、ムラからクニへ、戦いと交流もある。

 弥生文化、弥生時代を把握するには多くの問題があることがわかる。

 話は初めにもどって、「弥生ってなに?!」となる。

 そこで、藤尾氏は、弥生文化の要件として2つのキーワードをあげる。

 稲作の有無として「水田」、集落形態として「環濠集落」である。

 この2点が揃った場所は、弥生文化が定着した地域と考える。

 2点が揃った時点でその地域の弥生時代がはじまるというのである。

 北海道と南西域の諸島群には、水田がなく独自の文化を継続しているので、弥生時代はない。

 北海道は続縄文時代(北の文化)であり、大隅諸島以南の諸島群は貝塚時代後期(南の文化)である。

 東北地方北部では、弘前市砂沢遺跡から弥生時代前期の水田遺構、炭化米、籾痕のある遠賀川式土器が発掘された。

 西日本にさほど遅れることなく東北に稲作農耕が伝わっていることがわかる。

 しかし、縄文文化の代表ともいえる土偶や土版が出土し、石器には縄文時代から引き続く形態の石鏃や石匙もある。

 つまり、稲作に手は染めたが、他の文化は旧態のまま縄文であるという。

 その後、300年つづいた水田が洪水被害に合い、彼らは水田稲作を手放し、採集狩猟生活に戻るという。

 これを弥生時代と呼んでいいのか、と藤尾氏は躊躇する。

 第2のキーワードの環濠集落が出現すると、藤尾基準では、弥生文化がおよんだことになる。

 環濠集落は、南関東まで順次伝播していく。

 ところが、環濠集落はなぜか利根川を越えていない。

 そこで、藤尾氏は弥生文化の伝播は南関東までとして、弥生文化の範囲を下図のように考えている。

 このとき、ほぼ全国的に展開され、弥生時代特有の方形周溝墓が利根川を越えて分布していても、藤尾氏は環濠集落が及んでいない地域は弥生時代ではないという。

 方形周溝墓は弥生時代前期中頃に近畿地方でみられ、前期のうちに伊勢湾に達する。

 その後、中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がったという。

 方形周溝墓は時間をかけて、東北南部まで達しているのである。

 一見、弥生時代判定の基準によさそうであるが、九州の弥生時代には支石墓や甕棺があり、山陰には四隅突出型墳丘墓がある。

 例外の多いものは、判定基準にはやはり不向きと思われる。

 ≪地域によって弥生文化の時間は異なり、1200〜500まで長短があります。
  でも古墳が造られるのはほぼ同時ですから、弥生文化の時間が短かった地域では、
  その分、縄文晩期が長かったことになります。≫

 ≪利根川まで弥生文化が広がっていたことは間違いありません。
  意見が分かれるのはそこから北の地域です。(中略)
  水田稲作を行う人びとの文化はすべて弥生文化なのか。
  それとも水田稲作を生活の基盤とし、農耕社会を成立させ、弥生の祭りを行う、
  という過程を経て古墳時代へとつながる文化だけが弥生文化かなのか。≫

 展示場には藤尾氏と、異なる基準を持つ東京大学の設楽博己教授とによる各地の遺跡の時代判定がある。

 設楽氏は、生業重視の考えで、本格的な畑作や水田稲作をやっている地域はすべて弥生文化いう立場である。

     砂沢遺跡(青森県):設楽=弥生、藤尾=別の文化
     石行遺跡(長野県):設楽=縄文と弥生のグレーゾーン、藤尾=縄文
     橋本一丁田遺跡(福岡県):設楽=弥生、藤尾=弥生


 

 藤尾氏の考えが正しいのか、設楽氏の解釈がよいのか、私にはよくわからない。

 弥生文化、弥生時代を把握、理解にもいろいろな考え方があって、一筋縄ではいかないことがよくわかった。

 いろいろな研究者の話を聞くと、へぇ〜と感心することがある。

 今回の講演会もそのひとつである。

 これだから講演会聴講はやめられない。


 (追記訂正)2014.9.21記

 掲示版で、櫻井氏よりいろいろご意見をいただき、再度、藤尾説を調べた。

 その結果、8.31掲載の文章に間違いがあることがわかった。

 記載内容に間違いのあったことを陳謝し、訂正をする。

 私は、藤尾氏の弥生時代判定の基準を3点としたが、氏は第2番目の方形周溝墓を必須と考えられていないことがわかかった。

 ネットにみられる藤尾氏の言を掲載する。

 ≪私の立場としては生業と社会という2つの表情が揃っていれば弥生の顔が形成されていると考えています。
  一方設楽先生は生業という表情だけでも弥生の顔だという意見です。≫

 よく考えれば、弥生時代の埋葬形態には、支石墓、甕棺墓、箱式石棺墓、四隅突出型墳丘墓、方形周溝墓など多様な物がある。

 時間と場所によってさまざまなものを基準に入れると複雑になり、判定しにくくなる。

 今後、同じ過ちをを冒さないようにこころして、努めていきたいと思う。

 訂正のきっかけをいただいた櫻井氏に感謝を申しあげる。


  写真 1:「企画展示 弥生ってなに?!」のパンフレット

  写真 2:藤尾説による弥生文化の範囲(ネット「@PressNews」より作成)

  写真 3:方形周溝墓 地域別変遷図(山岸良二編『原始・古代日本の墓制』1991・同成社 より)

  写真 4:設楽・藤尾両氏による遺跡別時代判定パネル(ネット「生活の友社−美術の窓」より)


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