館長だより 第35号
館長だより 第35号

館長の見聞録(15)

2013/06/30

   ☆ 一支国 探訪 (その1)

 先日、旅行社のツアーで壱岐へ行ってきた。

 目的は、原の辻遺跡と一支国博物館の見学である。

 ツアーのスケジュールでは、遺跡は10分、博物館は50分の見学時間となっている。

 まったくなさけないほどの時間ではあるが、とりあえず一目でも見たいので行くことにした。

 邪馬台国にとりつかれて、行かれるチャンスをじっと待っていたが、結局はガマンしきれなくなったのである。

 このツアーには、原の辻遺跡と一支国博物館のほかに、珍しくも鬼の窟古墳と月読神社の見学もあるので、妥協した次第である。

 猿岩とか、はらほげ地蔵など古代に関係ないところは省いて、探訪記を記す。


 一海を渡る

 博多港からフェリーに乗って、壱岐の郷ノ浦をめざす。

 乗船時間は2時間は20分の予定である。

 最近はジェットフォイルの高速船も就航していて、こちらは1時間10分である。

 どちらにしても、動力船である。

 古代の手漕ぎ船とは比べようもないが、卑弥呼の使いが渡った玄界灘にかわりはない。

 魏志倭人伝には、壱岐と那の津を結ぶ航路はでてこないが、いまの私には関係ない。

 いざ、めざせ!一支の国である。

 停滞する梅雨前線と熱帯低気圧が変わったばかりの台風4号の影響をもろに受けながら、フェリーきずな号は博多湾へ漕ぎ出す。

 博多湾を北西に進むと、右手に金印の志賀島、左手に能古島が見える。

 甲板にいると、くだけた波しぶきを受けるが、船のゆれはさほど感じられない。

 船は進路を変えずに、そのまま進み、左手に糸島半島の先端、西浦崎を大きくまわる。

 音無瀬戸である。右には玄界島がある。

 ここまでが博多湾、これから先が玄界灘である。

 これから船は対馬海流に逆らって、西へひた走る。

 波が船首にあたる。岩を乗り越えてはしる車のようにゴツン、ゴツンと船底を音が通り過ぎる。

 もう、船の左右は波立つ水平線が見えるだけになる。

 ふらつく甲板から、船室にもどり、横になる。

 玄海灘を越える古代人の苦労が思われる。

 もっとも、こんな天気の日には船を出すはずはないが……。

 昔、角川春樹氏が古代船「野生号」で渡海を試みて、失敗をしたが、並大抵のことでは玄界灘は渡れない。

 遠くに壱岐の島が霞んで見えてきた。

 方角からすると、島の南東部の海岸線と思われる。

 壱岐島の南端、イルカ鼻をぐるりとまわり、北上して郷ノ浦港をめざす。

 墨色に染まった緑の島が目の前にある。小高い山がいくつか見える。

 壱岐で一番高い岳の辻が中央にそれとわかる。

 ≪方三百里ばかり。竹林・叢林多く、三千ばかりの家あり。
  やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。≫

 これが、壱岐の島かぁ。やっと来たぞぉ。

 港の突堤が現れ、船はほぼ予定通りの時間に、接岸する。

 傘を差しながらの上陸である。雨の止む気配はない。


鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)

 現在、壱岐島内で確認されている古墳の数は280基をかぞえる。

 南北17km、東西15km、面積133.8 km2しかない小さな島にこの数である。

 長崎県(4095km2)全体で、古墳は520基ほどという。

 半数以上が壱岐島に集中している。その密度は異常というほかない。

 一支国博物館のカタログによると、古いもので、確実なものは古墳時代中期後半(5世紀後半)の大塚山古墳(円墳・径14m)がある。

 壱岐に残る古墳のほとんどは6〜7世紀代のもので、中でも、6世紀後半〜7世紀前半の約100年間に200基以上の古墳が築かれている、という。

 鬼の窟古墳は島の中央部に位置する県内最大級の円墳である。

 直径は45m、高さは13.5mを測る。

 築造は6世紀末であるが、その後、7世紀末まで追葬あるいは祭祀行為が行われていたと考えられている。

 道路わきの駐車場でバスを降りると目の前に鬼の窟古墳ある。

 数段の階段をあがると開口した石室の入口がみえる。

 石室は大きな玄武岩を積み上げて造られている。

 最大の天井石は4mもあるという。

 石室内は見学できるが、中が狭く、今回は団体のため入口から奥をながめただけに終わった。

 ネットに石室内を見学した人による動画がある。

 こちらで「鬼の窟古墳見学」見られる。2分48秒

 石室は全長16.5mの3室構造の両袖式横穴石室である。

 入口から羨道を経て、前室、中室、玄室と袖石によって分かれている。

 玄室には、奥壁に接して組合せ式箱式石棺があったと推測される。

 石室内は盗掘にあっており、中室にある板石は石棺のふたと思われる。

 被葬者は壱岐の直(あたえ)の一族か、それに連なる人々が推定されるが、確証はない。

 副葬品があれば、なにかわかるかもしれないが、残念ながら盗掘でなにもない。

 5〜7世紀の壱岐の古墳の被葬者たちと、3世紀の邪馬台国時代の一支国の首長層との関係はどうなるのだろう。これも想像の域をでない。


月読神社

 壱岐は神々の島でもある。

 延喜式に記されている式内社が24社もある。ちなみに対馬には29社ある。

 九州全体の式内社は98社なので、二島で九州の半数以上を占めていることになる。

 壱岐の24社のなかには、天照大神を祀る同 佐肆布都神社、素戔嗚尊の角上神社をはじめ、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天忍穂耳尊、萬幡豊秋津比賣命など高天原神話に登場する神々を祀る神社が勢ぞろいしている。

 壱岐の神社は量、質とも圧倒的である。

 月読神社は鬼の窟古墳の前の市道174号線を1キロほど東に行ったところにある。

 その歴史は千年以上を誇る延喜式内社である。

 道路わきに石の鳥居があり、扁額に「月讀神社」とある。

 鳥居の横には由緒書きがある。

 鳥居をくぐると山の斜面を登るように参道の石段があり、登ったところに社殿がある。

 社殿は新しい小屋で、ちょっとがっかり。

 御祭神は、中央に月夜見尊、左に月弓尊、右に月読尊をお祀りしている。

 いずれも同一神の別名である。

 鎮座年は不詳であるが、日本書紀によれば、顕宗天皇3年(487年)に「民地をもって奉れ、我は月神なり。」との宣託があったと書かれている、という。

 月読尊については、ネットのウィキペディアに解説がある。

 ≪『記紀』においては、伊弉諾尊(伊邪那伎命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。
  月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある。
  天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、素戔嗚尊(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる。≫

 『古事記』では、夜を司る神であり、『日本書紀』では滄海原を司る神とある。

 天照大神や素戔嗚尊に比べると、記紀における月読尊についての記述が極端に少ないが、三貴子(うずみこ)の一柱である。

 壱岐の月読神社は、全国にある月読神社の元宮であり、月読神社発祥の神社であるという。

 社殿の右横に少し上る細い道があり、赤い鳥居と小さな石祠が二つあり、こちらにも月読神社の名が刻まれている。

 これが古いものならば、本来の社殿かもしれないというひともいる。

 また、この神社は古来清月・山の神と呼ばれていて、単に山の神を祀る神社であったのを、清月の地名から月読神社なったというはなしもある。

 どれが、正しいのかよくはわからない。

 それでも、神社の由緒、分布を調べることは、古代の足跡を知る手がかりにつながるかもしれない。

 現在、月読神社は壱岐のパワースポットの一つに数えられている。

 でも、私はこういう取りあげ方は感心しないと思っている。

                                      (つづく)


  写真1:博多〜壱岐〜対馬航路の「フェリーきずな」号(館長撮影)

  写真2:博多湾周辺のフェリー航路地図(地図はYAHOO!JAPAN地図より)
       @志賀島、A能古島、B西浦崎、C玄界島(島の写真は各島のウィキペディアより合成)

  写真3:フェリーから見えた雨に煙る壱岐島(館長撮影)

  写真4:鬼の窟古墳 入り口部分(『壱岐の古墳 重要文化財展』2013・一支国博物館より)

  写真5:鬼の窟古墳 石室内(同上より)

  挿図6:鬼の窟古墳 墳丘復元図(左)と石室実測図(右)(同上より)

  写真7:月読神社の境内入口の鳥居と社号標(ネット「はむすたーそくほう 壱岐の月読神社」より)

  写真8:境内内の摂社の赤い鳥居(館長撮影)


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