館長だより 第34号
館長だより 第34号

安本作品 あれこれ(1)

2013/06/16

   ☆ 「日本のあけぼのを推理する」

 ”君、この雑誌を知ってるかい。卑弥呼のことがでているよ。”

 私が高校生のとき、地歴部顧問の先生が教えてくれた。

 『科学朝日』の1965年11月号である。

 安本美典氏の「日本のあけぼのを推理する」が掲載されている。

 そこには、『古事記』の記述をデータ分析して、卑弥呼は天照大御神と推理されている。

 筆者の安本氏は、日本リサーチセンター統計課長、計量国語学会会員とある。

 統計学の専門家は視点がちがうなあ、とそのときは思った。

 私にとって、これが安本作品とのはじめての出会いである。

 現在、私は安本氏が主宰する「邪馬台国の会」の会員であり、会の運営の手伝いをさせてもらっているので、以後、安本先生と呼ぶ。

 この掲載論文が、古代史に関する安本先生の第1作目かどうかは不明だが、初期の論文なので内容を紹介する。


 題名のつぎに惹句がある。

 ≪『古事記』の天皇のお年は、なぜ長いのだろうか。
  『魏志倭人伝』の卑弥呼はだれだろうか。
  数学のたすけをかりて古代のナゾを推理する。≫

 歴史の謎が、数学で解けるのであろうか。

 第一のテーマは、「天皇のお年のなぞ」である。

 天皇の年が長い理由を、どうしたら数学の計算式によって答えが出せるのか興味津々である。

 安本先生は、第1代の神武天皇から普通以上に長命の雄略天皇(第21代)までの年齢を書き出す。(第1表)(2)

 それをグラフに描く。(第1図)(3)

 天皇のほんとうの年をx(未知)、『古事記』にある天皇の年をy(既知)とすると、y=ax+bとなる。

 この場合、a とb は定数である。

 a とb がわかれば、天皇の年が長くなった理由がある程度わかるという。

 次に、『古事記』に書かれている雄略天皇までの年齢の平均値と、史的にわかっている用明天皇以降の年齢の平均値を出す。(第2表)(4)

 それぞれの平均値の標準偏差を出す。標準偏差はちらばりの度合を示す統計的な値である。

 以上の数値を使って、a、bを計算する。

 a は38.11÷17.95=2.12となる。a は一般に整数なので、a=2となる。

 b は91.33=2×48.50+bより、b=−5.7となる。

 この値は数字の精度を考えるとほぼ0といえる。

 よって、y=ax+bの式は、y=2xとなる。

 ≪すなわち、『古事記』による天皇のお年は、なんらかの理由によって、ほんとうのお年を2倍してある可能性が大きい。
  事実、『古事記』による天皇のお年の平均値91.33と、史的にはっきりしている天皇のお年の平均値48.50との比は、1.88でかなり2に近い。≫

 漠然と感じていたことが、平均値と標準偏差による分析で根拠ができたということになる。

 裴松之の注にある「『魏略』にいわく、その俗正歳四時を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となすのみ」の一文が俄然重みを増してくる。


 次のテーマは、「卑弥呼はだれか」である。

 『古事記』のなかで、卑弥呼をもとめると候補は4人ほどがあげられる。

 神功皇后、倭姫、倭迹迹日百襲姫、天照大御神である。

 こんどは天皇の在位年数を調べる。平均値は14.22年で、標準偏差は9.35となる。

 14.22年は、用明天皇(第31代)から大正天皇(第123代)までをデータにとった平均値である。

 天皇は政治的な権力から離れるにつれ、その地位は安定し、在位年数は長くなる傾向にあることがわかる。

 そこで、史的にはっきりしている天皇のうち、卑弥呼の活躍年代により近い天皇の平均値を求めることにする。

 用明天皇から後鳥羽天皇(第82代)までを調べると、平均値は11.80年、標準偏差は7.96となる。

 これに基づき、ある人物の活躍時期を推定する計算式は以下となる。

 95%の信頼度では11.80n±1.96×7.96×√nである。

 99%の信頼度では11.80n±2.58×7.96×√nである。

 1.96と2.58は、信頼度によって定まる定数であり、nはn代まえ、n代あとをいう。

 4人の人物が活躍していた時期を調べる。(第7表)(5)

 それをグラフに描く。(第4図)(6)

 ≪これでみれば、卑弥呼が活躍していた時期と重なるのは、天照大御神ただ1人となる。
  倭迹迹日百襲姫の活躍された時期は卑弥呼が活躍していた時期と重ならない。
  以上をまとめるならば、卑弥呼は天照大御神である可能性が、もっとも大きいことになる。≫

 そして、安本先生は二人が符合する事柄を9例あげている。

 (1)天照大御神も卑弥呼も、ともに女性である。

 (2)ともに夫をもたない。

 (3)ともに弟がいる。須佐之男命と男弟。

 (4)天照大御神は高木神といっしょに命令を下している。卑弥呼には辞を伝える男子がいる。

 (5)卑弥呼の死後、壱与が女王になる。『梁書』『北史』は壱与を台与と記す。
   天照大御神の日嗣の御子は天忍穂耳命であり、その正妃が豊秋津師比売である。
   豊と台与は音が一致する。

 (6)卑弥呼の死後、争乱があった。天照大御神の次代の天忍穂耳命が「水穂国は、いたく騒ぎてありなり」と述べている。

 (7)卑弥呼が日御子であれば、天照大御神が日の神であることと一致する。
   「卑」「日」、「弥」「御」、「呼」「子」は、古代日本の母音でいずれも甲類に属する。

 (8)大和朝廷の皇祖神、天照大御神が邪馬台国女王卑弥呼であると仮定すれば、大和と邪馬台がともにヤマトという類似からも、きわめて自然である。

 (9)卑弥呼は「倭王」である。神武天皇を「神倭伊波礼昆古命」と呼んだように「倭」の文字がしばしば現れる。
   したがって卑弥呼にあてる人物は『古事記』『日本書紀』に記されている大和朝廷の関係者のなかから求めるべきであろう。
   とすればその関係者のなかで、まず、時代の合致する人が、卑弥呼であると考えるのが、自然であるように思われる。

 候補者のなかで、これほど類似点をあげられる人物は、天照大御神以外にはまずいないと思われる。


 最後に安本先生は日食にもふれている。

 ≪天照大御神が、天の岩戸にかくれたという物語を、日食神話とみる考え方がある。
  ところで、商船大学の渡辺敏夫教授の『東亜における中心日食表』によれば、卑弥呼の活躍していたと考えられる時期には、
  たとえば西暦212年8月14日に、九州で7割5分程度、大和で7割程度かける日食などがみられる。
  皆既日食はみられない。
  しかし、後代におこった日食が、日の神、天照大御神に結びつけて物語られた可能性もあるであろう。≫

 現在は、東京天文台の斎藤国次氏(東大教授)の研究 によって、西暦247年、248年の皆既日食が確認されている。

 卑弥呼の活躍年代に皆既日食が確認されるまえに、この論文で、もう日食についても検証をすすめているとはおどろきである。

 「日本のあけぼのを推理する」の論文が、安本学説の原点と思われる。

 これ以後の論の展開、深まりは皆さんの知るところである。

 「日本のあけぼのを推理する」の紹介は以上であるが、私自身が内容をすべて理解して要約しているかといわれれば、ちょっとこころもとない。

 全文を見たい方は、都内の図書館では、都立中央、都立多摩、杉並区立高井戸、中野区立中央の各図書館が所蔵している。

 どうしても図書館に行く時間のない方は、誰にも許可は得てないが、こちらをどうぞ。

 「日本のあけぼのを推理する」 【p139】  【p140】  【p141】  【p142】  【p143】  【p144】  【p145】



  写真1:『科学朝日』(1965年11月号・朝日新聞社)の表紙

  挿図2:第1表『古事記』の天皇のお年(『科学朝日』の収録の「日本のあけぼのを推理する」より)

  挿図3:第1図 天皇のお年(同上)

  挿図4:第2表 天皇のお年の比較(同上)

  挿図5:第7表 4人の人物画活躍していた時期(同上)

  挿図6:第4図 4人の人物画活躍していた時期(推定値)と卑弥呼の活躍していた時期(同上)


トップへ

戻 る 館長だより HP表紙 進 む
inserted by FC2 system