湖南省博物館・中国科学院考古学研究所の『長沙馬王堆一號漢墓』(平凡社・1976)に「槨」の記述がある。≪古文献中の“槨”には二つの意味があり、その一つは外棺をさし、もう一つは槨室をさす。(略)
槨室と外棺の主要な区別は、次のような点にある。
槨室は厚い板を用いて墓穴の中に組み立てたもので、外棺はあらかじめ蓋のある1個または数個の木の箱を作り、内棺の外側に重ねて墓穴に埋め込んだものである。≫
続いて古文献中の「槨」の用例をあげ、≪棺はそっくりそのままほかへ移せるが、槨室は解体して取り除き、あらためて積み上げなければならない≫と説明している。
前号で「槨」は棺を入れる外箱に限定していた解釈は、はやとちりのまちがいである。申し訳ない。
馬王堆1号墓の埋葬施設についての記述は以下の通りである。
≪この墓は封土・墓道・墓穴・墓室(墓穴の下部)の四部分から構成され、その型式は長方形に掘った竪穴である。(略)
墓の開口部は、封土の下面にあり、(略)墓の開口部から墓底までの深さは16m。
(その墓底に築かれた木造埋葬施設を槨室という。その組み立て順は)まず3本の枕木を墓底に置く。
それから枕木の上に二重の底板を敷き、さらに底板の四方に4枚の壁板(槨室の外壁)を立て、4枚の壁板の内側に一定の空間(辺箱・副葬品を納めるところ)をのこして、また4枚の仕切り板(槨室の内壁)を立てる。
遺体を入れた内棺を含む四重の棺を、槨室の4枚の仕切り板で囲まれた棺房(棺室)の中に一つずつ入れる。(略)
それから棺室と辺箱の上に天井板をかぶせ、さらに天井板の上を二重の蓋板でおおう。≫
写真は蓋板をはずして上から写したものである。全体が槨室であり、中央が棺室である。
床板の下層は3枚、上層は5枚の板を並べて出来ている。
壁板は各辺ともに継ぎ目のない1枚板である。
天井板は7枚の板で組み合わされ、うち3枚が棺室の上をおおっている。
解体しても、また組み立てられる構造になっている。
これで槨室の仕組みがよくわかる。
手元にある報告書で、もう1例、漢墓をみてみる。
東方考古学会の『陽高古城堡』(六興出版・1990)にある第17号墳(魯相墓)である。
≪封土は高さ約五・五メートル、基部は三六メートルに達し、古城堡古墳群中最大のものである。(略)
墓壙の中には木槨をつくり、(略)(その)天井および床は幅四五センチ、厚さ一五センチの材を南北に並べ、側壁は一五センチの角材を縦に並べる。(略)
木槨内には、西寄り北壁に接して黒漆の棺が二つ東西の方向に並置され、その東と南との広い床一面には多数の副葬品が並べられてあった。≫
槨室は角材を並べて天井、床および内壁を作り、その中に棺を納める。これを木槨と呼んでいる。
こちらも馬王堆1号墓同様な構造であることがわかる。
以前、飛鳥地方の古墳についての講演会で、講師の方が石室の床面は土のままで、石槨は床石の上に壁の板石がのっていると説明していた。
なるほど、石舞台古墳の棺設置場所の床面は土のままであり、壁や天井は石でかこまれていて、石室を呼ばれている。
牽牛子塚古墳の床面は板石できていて、すべてが石でおおわれている。こちらは石槨と呼ばれている。
飛鳥地方の野辺にある石造物「鬼の俎板」の上に「鬼の雪隠」を載せてできあがるのが石槨となる。
粘土槨について小林行雄氏が『図解 考古学辞典』(東京創元社・1959)に書いている。
≪古墳の封土中に石室をもうけず、直接に棺を埋めるばあいに、木棺の周囲を厚く粘土でつつむことがある。
棺の外部構造という意味で、これを粘土槨という。(略)
ただし木棺の身をつつむ粘土と、蓋をおおう粘土とは時間をおいて施工されるから、かならずしも一貫した外形をしめさぬばあいがある。(略)≫
床面と天井、壁が同一の材料で構成されているので、槨と呼ばれている。
この点から、いま一度『ホケノ山古墳 調査概報』(学生社・2001)をみる。
≪(ホケノ山古墳の)「石囲い木槨」はわが国で初めて確認された構造の埋葬施設で、木材で構築した木槨部分と、その周囲に石を積み上げて構築した石槨部分からなる二重構造をもつ。(略)
(石槨の)壁面は川原石を巧みに積み上げ、ほぼ垂直である。(略)
蓋は木材で架構し、その上に少なくとも石槨内部を埋め尽くすだけの量の石が積まれていたと考えられる。(略)
(木槨の)側板は厚さ10cm弱の板材を横長に積み、内側の添え柱によって支える構造である。(略)
木槨には木材の床はない。
墓壙底には若干の置き土を施したのち、大量のバラス(破砕石)を敷いている。
このバラス面がそのまま棺床となるのではなく、さらに人頭大からそれ以上の大きさの川原石を周囲に巻くように設置して中央が舟底状にくぼむようにしつらえている。
粘土はいっさい使用されていない。(略)≫
なんとも複雑な構造である。
床面に使われている材料に注目すれば、石槨であるが、板材の使用状態が木槨に似ている。ただし、床板はない。
きっと報告者は命名に苦慮したことだろう。
ホケノ山古墳の埋葬施設は「槨」であると言えそうであるし、「槨」でないとも言えそうである。
陳寿がこれを見たら、なんというであろうか。
「槨室」を指す「槨」の使用例が『漢書』「外戚伝」にあると『長沙馬王堆一號漢墓』に書かれている。
≪“太后[哀帝の母にあたる丁太后]が紹を下して‘もとの棺により、槨を致し塚を作らせよ’といった”とあり、顔師古の注に“致すとは、重ねることをいうのだ”とある≫
漢代には、「槨」は槨室の意味で使われていたという例証となる。
「倭人伝」にある「槨」はどちらを指しているのだろうか、それとも両方を意味しているのだろうか。
判断をするには、材料が乏しい。
どうもまとまらない話になってしまったが、最後に、陳寿はどういう意味で倭人伝にある墓制記事を書いたのだろうか。
倭人の墓には「槨」がないとはどういうことであろうか、考えてみたい。
中国の王侯貴族は、墓を造るときは竪穴を掘り、棺を槨に容れ、ときには棺も槨も二重、三重にして埋葬している。
倭人は王や大夫を名乗っているのに、墓では棺を槨に容れることをせず、そのまま竪穴に棺を納めて埋葬する。
槨の使用は身分の高さをあらわすのに、倭国の墓制はなんと粗末であることよ、とでも思って「棺あって、槨なし」と書いたのであろうか。
「東夷伝」には他の国の墓のようすも書かれている。
陳寿は、各国の墓制に注目して、その国の文明度を判断していたのかもしれない。
写真 上:馬王堆1号墓の槨室の構造と副葬品の出土情況 (『長沙馬王堆一號漢墓』 平凡社・1976 より)写真 中:左・鬼の俎板、右・鬼の雪隠 (ウィキペディア「鬼の俎・鬼の雪隠」より)
写真 下:ホケノ山古墳 木槨復元模型 (『ホケノ山古墳 調査概報』 学生社・2001 より)
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