『魏志』倭人伝に倭国の墓制の記事がある。≪其の死には棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る≫
〔其死有棺無槨、封土作冢〕
棺は遺体を納める柩のことであり、槨は棺を納める施設のことである、と私は思っていた。
槨には木槨や粘土槨・礫槨などがあり、私の認識を裏付けていた。
ところが、宮城谷昌光の小説『孟夏の太陽』(文春文庫・1994)を読んでおどろいた。
≪焼死した魏舒の屍体を納めた棺が晋都に着いたとき、大臣の士鞅は、棺から椁(外箱)をはずした。椁の多さは身分の高さをあらわしている≫
椁(=槨)とは棺を内包する外箱であり、二重にも、三重にもなることがあるらしい。
『日本考古学事典』(三省堂・2002)に「棺・槨」の項を白石太一郎氏が書いている。
≪中国の書『家礼』に「人家の墓、壙・槨・棺は切にはなはだ大なるべからず、まさに壙をしてわずかによく槨を容れしめ、槨をしてわずかによく棺を容れしむればすなわち善し」とあり、古代中国では、壙の中に槨、槨の中に棺を納めたとされてきた。事実、漢代の木槨墓などでは、土壙の中に1ないし2重の木槨をつくり、その中に棺を納めたものが一般的である。日本では古墳などの埋葬施設について、この壙・槨・棺の概念を借用して命名するようになっているが、中国に固有の墳墓の埋葬施設の用語を日本の施設に適用するにはやや無理があり、そのため混乱が生じることがある。現在では、この3段階にさらに室を加え、壙・室・槨・棺の4段階の用語によって埋葬施設の呼称としており、それなりの共通理解が得られるようになっている。(以下略)≫(注1『家礼』)
やはり、槨は棺を容れるものであり、壙あるいは室に納めるものとなる。
まさに槨は棺の外箱である。
日本の墳墓遺構の名称に使用されている「槨」をもって、倭人伝にある「槨」を論じていいものであろうか。疑問が生じる。
宮城谷氏の小説の背景は春秋時代(BC770〜BC403)である。
同時代に近い墳墓に曾侯乙墓(BC433頃)、南越王墓(BC122)がある。
解説文によると、曾侯乙墓は岩盤に掘り込まれた竪穴木槨墓で、木槨は4室に分かれ、中心の東室には内外二重の棺が納められていると書かれている。
この二重の棺を写真で見ると内棺と外棺では構造が異なる。
内棺は曲線の高さを持った胴部にかぶせる蓋が付いている。
外棺は大小の6枚の板を組み合わせた箱状のものである。
内棺が棺であり、外棺は槨のように思える。
曾侯乙墓は、『家礼』に「室」を加えた説明に従えば、岩盤に掘り込まれた壙墓であり、4つの木壁の室に分かれ、東室に槨に容れられた棺が納められている、といえるのではないだろうか。
南越王墓では、小山に墓壙を掘り、切石を積み上げて7つの墓室を造り、主棺室に漆塗りの槨と漆塗りの棺が置かれていた痕跡があったと報告されている。
槨も棺も遺存されていないが、槨は外箱と認識されている。
そういえば、時代も場所も異なるが、エジプトのツタンカーメンは黄金のマスクを被り三重のミイラ型棺に容れられ、四重の厨子に納められている。
厨子は中国でいう槨にあたると思われる。人のすることは似るものである。
ところで、日本のホケノ山古墳の木槨木棺墓の「槨」である。
「槨」であるのか、「槨」でないのか。どこに問題があるのか考えてみる。
まず、「槨」は、学校の教室かそれ以上の大きな部屋でなければならないという人がいるが、大きさによる判断はまちがいである。
「槨」に大きさの基準はなく、棺を容れるものであり、槨と棺の隙間は少ないほど善しとされ、場合によっては、槨は棺を容れて運ぶものである。
この問題の原因は古代中国で使われた「槨」を安易に日本の埋葬施設の名称に使ったことにある。
ホケノ山古墳の埋葬施設「木槨」はもともと倭人伝にある「槨」とおなじなのであろうか。
「槨」の用語を使うことによる誤解ではないだろうか。
ホケノ山古墳の埋葬施設は、地山に盛り土した墳丘頂部に竪穴を掘り、その周囲に石を積み上げ、その内側に板材を積み上げ柱で支え、壁を作っている。
石積みや板積みは竪穴に附属する不動産的構築物である。石積みや板積みは竪穴から独立したものではない。
ホケノ山古墳では板壁の竪穴の中に木棺を納めている。
この板壁の埋葬施設を、倭人伝の「槨」と同じとみることに不都合はないのであろうか。
漢墓で有名なものに長沙の馬王堆1号墓がある。
この墓は、巨大な竪穴墓壙に二重の木槨と四重の木棺で構成されているという。
馬王堆1号墓の報告書をみて、「槨」の意味を次号でも考えてみる。(続く)
挿図:影印南宋紹熙刊本の「魏志倭人伝」の一部(ネット「邪馬台国大研究」より作図)写真:曾侯乙墓の内棺(上)と外棺(下) (特別展図録『曾侯乙墓』1992・東京国立博物館 より作図)
注1:『家礼』 朱熹(朱子)(1130〜1200・中国宋代の儒学者)による冠婚葬祭の礼式の書。
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