(6) 飛鳥めぐり、その前に見瀬丸山古墳二日目は、バスで飛鳥の地を巡ることからはじまる。
ただし、前回の奈良旅行で飛鳥の寺院や遺跡は訪れているので、今回は車窓からの見学となる。
前回の旅行に参加していない私にはとても残念である。
そこで早起きをして、ぜひとも見たい見瀬丸山古墳をひとりで訪ねることにした。
幸い、見瀬丸山古墳はホテルからそう遠くないところにある。
見瀬丸山古墳とは20年ほど前、地元の会社員が石室内の写真を撮って、マスコミに公表したことで有名になった古墳である。
見瀬丸山古墳は前方後円墳であるが、当初、円墳と思われていて、古墳の名前もそこからきているという。
そのため陵墓参考地の指定は後円部の一部だけに限られている。
指定地域は柵で囲まれているが、会社員が訪ねたとき、開口していた石室への入口は柵外であった。
写真によると石室の一番奥の玄室に二つの石棺がある。
二棺を比べると奥棺が新しく、前棺が古く、前棺と石室は時期が同じという。
通常、追葬の場合、手前が新しくなる。
見瀬丸山古墳では逆であり、しかも前棺は石室の壁に平行に置かれていない。
まるで、引きずり出されて、適当に置かれているようにもみえる。
ここからが、興味深いところである。
『日本書紀』の推古天皇二十年(612)のところに注目すべき記事がある。
推古天皇が自分の母親である堅塩媛の遺骸を自分の父親である欽明天皇陵へ改葬したとある。
欽明天皇崩御(571)の41年後のことである。
堅塩媛は欽明天皇の皇后ではなく、5人の妃のうちのひとりにすぎないが、媛の父親が蘇我稲目である。
欽明天皇は第29代、推古天皇は第33代。
この間どんな権力闘争があったかは知らないが、蘇我馬子が一族の長となり、蘇我氏の勢力が絶頂の時である。
しかも、推古は自分が天皇である。自分の母親を父親である欽明天皇の陵墓に移葬することに妨げるものはなにもない。
そこで状況が記紀の内容と同じ見瀬丸山古墳が、ふたりが合葬されている檜隈大陵ではないかということになる。
奥の石棺が後から入れた堅塩媛で、欽明天皇の棺を手前に移動した考えれば、説明がつくと森 浩一氏はいう。
現在、宮内庁は欽明天皇陵としては見瀬丸山古墳の南、約800mにある梅山古墳を指定している。
梅山古墳も前方後円墳であるが、全長は140mであり、見瀬丸山古墳の全長は310mである。規模が格段にちがう。
全国で6番目に大きい見瀬丸山古墳が天皇陵でないわけがない。
こんな訳ありの古墳を見ずに帰るわけにはいかない。
見瀬丸山古墳に着いたときは、あたりがまだ暗かった。でも時間は限られている。さっそく、見学者のために(?)開いている金網の柵をぬけ、なかへ入る。
説明板がある。
墳丘は雑草、雑木がきれいに刈り取られていて、横から4段築成がよくわかる。
数枚写真を撮ったのち、まよわず前方部に登る。躊躇しているとだれかに止められるかもしれない。
登ってしまえば、こっちのもんである。さいわいまだ朝がはやく、通る人もいない。
段の角度は結構急で、手こそ着かなかったが、すべりながら登った。
上からあたりを見回すと、さすがに高い。町並みが遠くまでみえる。
当時のひとは巨大な古墳にさぞ、感嘆したことであろう。
前方部頂の端から後円部へ向かって歩く。かなり大きい。
岡山の造山古墳(約350m)以来、久しぶりに大型古墳に登った。最高!!
森になっている部分が後円部である。柵にかこまれている。
ここにも説明板がある。内容は下の説明板とほぼ同じだが、石室内の写真と実測図がある。
たぶん、この説明板の奥が石室の入口と思うが、残念ながらわからなかった。
上段をぐるりと一周しようとしたが、反対側は雑草が刈り取られていない。
少し、無理をして進んだが、とても行けそうになかった。
あきらめて、元のところへ戻って、下へ下りた。
見瀬丸山古墳の東側、約500mに、植山古墳がある。東西40m、南北27mの長方形をした方墳である。
この古墳は推古天皇とその子、竹田皇子の合装墓ではないかといわれている。
見瀬丸山古墳の後円部の上から、植山古墳の方を見たが、確認はできなかった。
現在、植山古墳は調査が終り、史跡公園として整備しているところであり、立ち入りが禁止されている。
次回は、植山古墳をぜひとも見たいものである。
朝8時、台風接近の情報に心配しながら、バスは飛鳥めぐりへ出発する。まず、見瀬丸山古墳。古墳のすぐ脇を左に曲がる。やはり、大きい。
天智天皇時代に建立の川原寺跡を左に、田道間守ゆかりの橘寺を右に見ながら、バスは進む。
蘇我馬子?の石舞台古墳の近くを通り、乙巳の変で蘇我氏を裏切った蘇我石川麻呂が発願の山田寺跡を遠くにのぞむ。
バスは町中へ戻り、日本最初で最大の都城である藤原京のなかを通り抜け、一路大阪へむかう。
あっという間の、飛鳥めぐりであった。
(つづく)
写真1:上空からの見瀬丸山古墳 上が北(『見瀬丸山古墳と天皇陵』雄山閣・1992の表紙より)挿図2:見瀬丸山古墳の墳丘図(『見瀬丸山古墳と天皇陵』雄山閣・1992より)
写真3:見瀬丸山古墳石室復元写真(『見瀬丸山古墳と天皇陵』雄山閣・1992より)
写真4:前方部横の下の説明板(館長撮影)
写真5:見瀬丸山古墳の全景(館長撮影)
写真6:後円部横の上の説明板(館長撮影)
(付 記)
見瀬丸山古墳に設置されている二つの説明板の文章を掲載する。国史跡 丸山古墳(まるやまこふん) 昭和44年5月23日指定 (下の説明板の文:写真4)
本古墳は全国で六番目、奈良県下では最大の規模をもつ前方後円墳です。
後円部の一部は、陵墓参考地として宮内庁で管理されています。
墳丘・周濠の大部分は、国の史跡に指定されています。
古墳の規模は、全長約310m、後円部径約150m、前方部幅約210m、周濠を含めると約460mを測る大型の前方後円墳です。
当初この古墳は、円墳と考えられていましたが、航空写真等により周庭帯をもつ巨大な前方後円墳であることが判明しました。
墳丘は南東から北西に延びる丘陵を利用し、削り出しと盛土により形成されたと考えられています。
後円部には、両袖式の横穴式石室が南側に開口しています。
石室は、土砂の流入により正確な規模は不明ですが、現状でおおよそ全長28.4m、玄室長8.3m、羨道長20.1mあり、日本最大の規模を誇ります。
石室の中で羨道の占める割合が他の古墳の石室と比較して長いのも特徴のひとつです。
玄室内には、二基の刳抜式家形石棺が安置されており、奥棺と前棺が逆L字状に配置されています。
棺蓋の縄掛突起などの形態から石室入口寄りに安置されている方が古く、奥壁寄りの方が新しいと考えられています。
また、石棺の石材は、両者とも兵庫県加古川付近で採集された竜山石を利用しています。
古墳の築造時期は、六世紀後半頃と考えられており、被葬者には欽明天皇、蘇我稲目など天皇クラスの人物が有力視されています。
橿原市教育委員会
国指定史跡 丸山古墳 昭和44年5月23日指定 (上の説明板の文:写真6)古墳時代後期(6世紀後半頃)に築かれた巨大な前方後円墳です。
その全長は奈良県下で最大、国内でも6番目の規模を誇ります。
墳丘と周濠の大部分が国の史跡に指定されているとともに、後円部頂上の木々が残っている場所は陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)となっています。
五条野町・大軽町そして見瀬町に亘る丘を削ったり、土を盛り上げて造ったと考えられています。
後円部上には南に開く横穴式石室があり、その全長は石舞台古墳(奈良県明日香村)よりも約9m長く日本最大の規模です。
また、他の古墳と比べて丸山古墳の羨道は、玄室に対して非常に長く造られていることも特徴の一つです。
玄室内には、2基の刳抜式家型石棺があり、奥にある石棺と手前にある石棺が逆L字形に配置されています。
石棺の蓋にある縄掛突起の形などから手前に置かれている石棺が古く、奥の石棺が新しいと考えられています。
また、両石棺の石材は兵庫県の加古川付近で採られた竜山石(凝灰岩)を利用しています。
丸山古墳に葬られた人は、欽明天皇や蘇我稲目など当時の我が国を治めた人物が有力視されています。
橿原市教育委員会
墳丘の全長 約310m、前方部の先端幅 約210m、前方部の高さ 約15m、
後円部の直径 約150m、後円部の高さ 約21m。
石室の全長 約28.4m、羨道の全長 約20m、羨道の幅 約1.4〜2.5m、羨道の高さ 約1.3m以上、
玄室の全長 約8.3m、玄室の幅 約3.6〜4m、玄室の高さ 約3.9m以上。
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