(7) 仁徳天皇陵古墳生駒山を越え、大阪・堺市にある仁徳天皇陵古墳へ行く。
仁徳天皇陵古墳は大仙陵古墳とも百舌鳥耳原中陵ともいう。
バスは古墳の前方部中央にある拝所近くにとまる。
柵にかこまれた先にある鳥居の奥に巨大な森がひろがる。さすがにでかい!
しかし、木が鬱蒼としていて正直、形がよくわからない。
それでも、日本最大の前方後円墳である。やはり、すごい!!
写真でいくら見ても、実際に見ないとこの大きさはわからない。
体でその規模を感じる。
40年以前に一人で来て、歩いて一周したときに一時間以上かかったことを思い出す。
古墳の全長は約486m、前方部は幅305m、高さ約33m、後円部は直径245m、高さ約35mである。
周濠は二重に巡っていて、一部三重のところもある。
濠で白鷺が遊んでいる。
参加者全員で前方部の森をバックに記念写真を撮る。
ここで、安本先生の解説を聞く。
古墳は天皇陵に指定されているため学術調査は行なわれていない。
しかし、後円部で石室の天井石・長持形の蓋石があるという古記録がある。
1684年の『堺鑑』と1757年の『全堺詳志』である。
ほかに新井白石の記した御陵の記述もある。(これらの詳細は付記参照)
明治5年には堺県令の税所篤が古墳の清掃と称して前方部で盗掘?の調査をしている。
その結果、竪穴式石室と石棺、甲冑、ガラスの壺や皿などが発見され、その様子が絵図に記録されている。
この他に、アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土と伝えられている4種5点の出土品がある。
環頭太刀の柄頭、細線文獣帯鏡、三環鈴、馬鐸(2点)である。
平成23年の宮内庁の調査によると出土品の年代(5C後半〜6C前半)と古墳の築造年代(5C半ば)が異なるため仁徳陵出土の可能性は低いという。
ただし、研究者によって築造年代には4世紀後半から6世紀までの説があるので、断言はできない。
それにしても、仁徳天皇陵古墳は謎の多い古墳である。
現在、古墳の拝所前周辺は大仙公園として整備されていていくつかの陪塚もある。
公園には堺市博物館があり、絵図や出土品の復元模型が見られる。
今回は時間が取れないので、なんとも残念である。
すこし雨が降ってきた。つぎの見学地へ急ぐ。
(つづく)
写真1:上空からの仁徳天皇陵古墳 上が北(ネット「大仙陵古墳・ウィキペディア」より)写真2:仁徳天皇陵古墳の西側の周濠(ネット「仁徳天皇陵古墳百科 堺市」より)
写真3:旅行参加者の集合写真(邪馬台国の会の写真より)
写真4:仁徳天皇陵古墳・石室石棺図(ブログ「マント蛙のブログ 仁徳陵出土の幻の甲冑」より)
写真5:仁徳天皇陵古墳・短甲 正面背面図(ブログ「マント蛙のブログ 仁徳陵出土の幻の甲冑」より)
写真6:ボストン美術館蔵の伝仁徳天皇陵古墳出土の環頭太刀の柄頭(ブログ「しばやんの日々 2012.4.20」より)
写真7:ボストン美術館蔵の伝仁徳天皇陵古墳出土の馬鐸(ブログ「しばやんの日々 2012.4.20」より)
写真8:ボストン美術館蔵の伝仁徳天皇陵古墳出土の三環鈴(ブログ「しばやんの日々 2012.4.20」より)
(付 記)『堺 鑑』(さかいかがみ) 貞享元年(1684)
○陵墓 仁徳天皇陵
此陵ハ泉河攝ノ堺大小路ノ東ノ町外ヨリ八町許離タリ 世人大仙陵ト云リ
天皇己亥ノ歳ニ崩ズ 宮廟ハ難波ノ邊高津ニ平野明神ト號ス
誠ヤ諸國ヨリ來テ此陵ヲ築シニ尾州ヨリ人歩遅來 故其築残ハ其儘谷トナレリ
今ニ尾張谷ト云リ 是俗説未考實否
山ノ間数ノ事 ハ山ノ根廻七百二間 山ノ南ノ高十四間 北ノ高十六間四尺 中ノ高十間五尺
中嶋ハジテ此陵ヨリ方角ヲ取余ノ陵所記ス
秀吉公度度此陵ニテ狩シ玉フニ仮ニ居ヲ構玉ヒケレバ其墟ヲ今ニ茶屋山ト所ノ人云リ
此近郷萬代村ト云所ニ履中反正兩天皇ノ陵アリ『全堺詳志』(ぜんかいしょうし) 宝暦七年(1757) 高志芝巌・高志養浩/著
陵墓部 仁徳帝陵 舳松村ニ在リ世ニ大仙陵ト称ス
(中略)
御廟ハ北峯ニアリ、石ノ唐櫃アリ、石ノ蓋長サ一丈五寸、幅五尺五寸、厚凡八寸、 浩曰 内ニハ尊骸並ニ明器等アルニ非ズ、空櫃也、千四、五百年ヲ歴タルナレバ、盗賊ノ発キタルナラン、
和漢皆然リ
(以下略)「白石先生紳書」(はくせきせんせいしんしょ) 新井白石による記述・『新井白石全集・第五巻』(1977)に収録
一、 仁徳の鳥野の御陵はあばかれて石棺の蓋の石 堺の政所の庭の踏石となれりと云
又伏見の内に在し米は世に云朱塗などの仁徳米是也
(以下略)
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