館長だより 第24号
館長だより 第24号

館長のよもやま情報(4)

2013/01/27

   ☆ 矢口裕之氏からの情報・噴火の年代

 第22号に榛名山の噴火年代に関する話を書いた。

 それをご覧になった、矢口裕之氏より噴火の年代についての情報をいただいた。

 矢口氏のホームページに掲載されている「第四紀の地質学」である。

 氏は自身のツイッターに≪群馬県の発掘屋さんです。災害を受けた遺跡を調べて地域伝承や自然環境の変遷との関わりで地域の歴史を明らかにしたいです。≫と自己紹介をしている。

 なにげなく書いた小文に専門家からメールをいただき、望外のよろこびである。

 氏の「第四紀の地質学」のなかの「(6)テフラの年代」には多数の噴火年代の測定値が書かれている。

 火山灰編年学という言葉さえ知らず、榛名山の1例を見つけて悦んでいる私とは雲泥のちがいである。

 以下、矢口氏の掲載の中から榛名山に関する一部を抜粋する。

 ≪テフラは火山の火口から短時間に噴出され、空中を運ばれることにより広域な地域にもたらされる。
 これによりテフラ層下面が同一の時間面として有効な鍵層であることが確かめられている。
 遺跡は論を待たず地形面や地層の対比にも不可欠であり、これを利用した編年は火山灰編年学と呼ばれる。
 また理化学的な年代測定法で得られた放射年代は、編年の目盛りとして活用がなされている。≫

 ≪榛名有馬テフラは、
   町田ほか(1984)により、渋川市の黒井峯遺跡3号墳の周堀から検出され、同古墳の年代から5世紀〜6世紀初頭とした。

  榛名二ッ岳渋川テフラは、
   新井(1979)が尾崎(1966)の二ッ岳降下軽石の年代と尾瀬ヶ原の泥炭層の堆積速度をもとに6世紀中頃〜末とした。石川ほか(1979)は6世紀前半と考えた。
   能登(1983)は、テフラの上下から出土する土器の年代観を根拠に6世紀前葉ないし5世紀末と考えた。
   右島(1983)は須恵器の年代観から5世紀末から6世紀初頭と捉えた。
   坂口(1986)は、前橋市の荒砥北原遺跡から出土した考古資料をもとに6世紀初頭とし、能登(1989)はこれを踏襲した。
   坂口(1993)は本テフラの降下年代を6世紀第一四半期とした。
   坂本(1996)は須恵器の年代観から西暦520〜525年と考えた。
   中村ほか(2008)は、本テフラの火砕流堆積物の炭化材からウイグルマッチング法による放射性炭素年代測定を行い、本テフラの2σの暦年代範囲を西暦485〜504年とした。
   藤野(2009)は本テフラが暦年代で5世紀末と想定された場合、5世紀末から7世紀の須恵器暦年代の調和性を述べた。

  榛名二ッ岳伊香保テフラは、
   尾崎(1961)により6世紀末と考えられ、新井(1962)はこれを踏襲した。
   尾崎(1966)は考古資料をもとに7世紀初頭とし、新井(1979)はこれを踏襲した。
   石川ほか(1979)は古墳の年代観から6世紀後半と考えたが、能登(1983)は土器編年から6世紀中葉とした。
   坂口(1986)は、遺跡から出土した考古資料をもとに6世紀中葉とし、坂口(1993)は6世紀第二四半期とした。≫

 以上の年代とその根拠のみをまとめると、下記となる。
 →は推定年代発表後、発表者が年代表現の変更をしたケースと思われる。

 榛名有馬テフラ
      5世紀〜6世紀初頭・黒井峯遺跡3号墳の年代

 榛名二ッ岳渋川テフラ
      5世紀末・5C末〜7Cの須恵器暦編年の調和性
      西暦485〜504年・火砕流堆積物の炭化材からウイグルマッチング法による放射性炭素年代測定
      5世紀末から6世紀初頭・須恵器の年代
      5世紀末ないし6世紀前葉・テフラの上下から出土する土器の年代
      6世紀初頭・荒砥北原遺跡出土の考古資料→6世紀第一四半期
      西暦520〜525年・須恵器の年代
      6世紀前半・二ッ岳降下軽石の年代と尾瀬ヶ原の泥炭層の堆積速度
      6世紀中頃〜末・二ッ岳降下軽石の年代と尾瀬ヶ原の泥炭層の堆積速度

 榛名二ッ岳伊香保テフラ
      6世紀中葉・土器編年
      6世紀中葉・遺跡から出土した考古資料→6世紀第二四半期
      6世紀後半・古墳の年代
      6世紀末→7世紀初頭・考古資料

 これほど多くの方が測定値が出されているとは知らなかった。おどろきである。

 これらの測定値のちがいは、根拠にした資料のちがいと考えられる。

 その多くは土器、須恵器などの考古資料を根拠にしているようである。

 考古資料はもともと相対年代しか出せないものである。

 それが、遺跡から出土する炭化物の炭素14を測定することによって考古資料に絶対年代を与えることが可能となったのである。

 その場合、樹木や種子などの炭化物と土器付着炭化物とでは、同じ遺跡、同じ土層の出土物であっても測定結果が異なる。

 考古資料を根拠にテフラの年代を推定した場合、その考古資料の年代がなにを根拠に決められたかを知る必要がある。

 できることならば、テフラの年代は早川由紀夫氏や中村賢太郎氏などのように、火砕流堆積物の炭化材からウイグルマッチング法による放射性炭素年代測定法などの理化学的方法で測定したほうが、より正確な値が得られるのではないだろうか。

 矢口氏の論文を読むにつれ、いかに私が多くの方の研究を知らず、浅学を恥じるばかりである。

 これらを調べまとめられた矢口氏のご努力により、先人の苦労を知ることができる。とてもありがたい。

 教えて頂いたことに心より感謝申し上げる。


  矢口裕之氏の「第四紀の地質学」の (6)テフラの年代はこちらをどうぞ。


  写真上:北東山麓・敷島から榛名山を望む(ネット「日本全国活火山登頂計画」榛名山より)

  写真下:榛名山頂の溶岩ドーム群(矢口氏のネット「歴史解明のための考古学」より作成)


  (追 記)

 矢口氏のホームページに「群馬県北西部のテフラとローム層の層序」という論文がある。

 これは、群馬県における関東ローム層をテフラ(火砕堆積物)のようすによって、分類し、その層序を確立したものである。

 ≪中之条・沼田盆地周辺に分布する中期〜後期更新世のテフラ・ローム層は、榛名火山および群馬・長野県境周辺の第四紀火山から噴出された降下火砕堆積物からなる。
  ローム層は、風化帯や斜交層準によって中之条ローム層、下部吾妻ローム層、中部吾妻ローム層、上部吾妻ローム層、沼田ローム層、下部ローム層、中部ローム層、上部ローム層に区分される。
  またローム層の層序単元は、累層単位であると考えられる。≫

 ≪本論文で記載されたテフラの層序は、今後県内の旧石器文化の解明に層序学資料として積極的に活用されることを期待し、原人段階の前期旧石器文化の遺跡の発見に向けた基礎資料として利用されることを望む。≫

 昔、関東平野における発掘調査は関東ローム層上面までで、ローム層そのものを発掘することはなかった。

 日本には旧石器時代は存在しないという先入観からである。

 相沢忠洋氏がローム層から旧石器を発見してからもかなりのあいだ、学者の面子でローム層を掘らない調査が続いた。

 それが、いまはローム層の細分がおこなわれ、それぞれのテフラ層の年代まで考察されている。

 弥生時代、古墳時代ばかりに、目がいっている私には、新鮮なおどろきである。

 世の関心も鏡が出たとか、銘文の大刀が発見されたという記事ばかりに注目してはいけない。

 矢口氏の論文は日本人の始原にかかわる旧石器文化に時間的物差しをあたえるすばらしい研究である。

 これにより、群馬県北西部における旧石器時代の発掘調査に今まで以上に詳細な年代を与えることができる。

 このような地道な研究されている矢口氏には、ほんとうに頭が下がる。

 ひとりでも多くの人に、知ってもらいたいと思い、ここに紹介する次第である。

  矢口裕之氏の 「群馬県北西部のテフラとローム層の層序」はこちらをどうぞ。


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