(5) 石野博信先生の講演夜、橿原ロイヤルホテルにおいて石野博信先生の講演が行なわれた。
演題は「ヤマト纏向王宮と箸中山古墳」である。
箸中山古墳とは箸墓古墳のことである。
箸墓古墳のほうが一般的であるが、研究者によっては箸中山古墳と呼ぶ人もある。
まず、纏向遺跡から出土した土器の話からはじまる。
石野先生は1971年から75年にかけて発掘調査を行なったときに、出土した土器を層ごとに本棚に並べたという。
本棚の一番下が遺跡の最下層から出土した土器であり、上にいくほど新しくなり、最上層出土の土器は本箱の最上段になる。
これで、土器の特徴が一目瞭然であり、しかも、その新旧が同時に見られる。
石野先生はなかなかのアイディアマンである。
本棚から纏向遺跡の土器の編年表ができあがる。素晴らしい。
桜井市立埋蔵文化財センターの展示もこうしてもらえると、土器編年がよくわかると思う。
本棚に並んだ土器の掲載写真は、下が一番古く、上に行くほど新しくなる。
編年表は、上が古く、下に行くほど新しくなる。
写真と表とでは、新古が逆である。
しかも、本棚の段と表の枠とは時期が微妙に異なる。
本棚の時は纏向の編年が、1式、2式……であり、編年表では1類、2類……に細分されたためである。
編年表では、上から下記の様になっている。
纏向1類 180年〜 (弥生5様式末)
纏向2類 210年〜 (庄内古式)
纏向3類 250年〜 (庄内新式)
纏向4類 270年〜 (庄内新新式・布留0式)
纏向5類 290年〜 (布留1式)先生の表によると、庄内式は210年頃から290年頃の土器となる。(他の年代とする研究者もいる。)
本棚の土器写真では、下から2・3番目が庄内式土器である。
どちらにしても、庄内式土器は3世紀の土器であり、邪馬台国の時代の土器ということになる。
先生の話によれば、庄内式土器が主体的に出土するのは、奈良盆地では東南部の纏向の地に限られていて、奈良盆地全体からはあまり出ないという。
それならば、庄内式土器の分布で人口7万余戸の邪馬台国の範囲を考えるとしたら、庄内式土器の分布範囲は国の中心地域のみとなり、国を構成している周辺地域は庄内式土器の分布外となる。
すると、同じ国のなかで、中心地域と周辺地域では使用土器が異なることになる。
しかも、庄内式土器は奈良盆地から山を越えた大阪府の東大阪市や八尾市から多く出土するという。
これは、どういうことだろう。庄内式土器の担い手は東大阪や八尾地域の住人ということなのであろうか。
土器の分布と政治的勢力範囲との関係はどうなるのであろうか。庄内式土器は邪馬台国問題とどう結びつくのか。
庄内式土器の年代も研究者によって異なる。纏向遺跡にはクリアーしなければならない問題がまだまだ多い。
つぎの話は、纏向遺跡から出土した特殊文様の遺物についてである。
弧文石 − 東田地区で検出された溝の上層から出土(第36次調査)……庄内3式期から布留0式期
特殊埴輪 − 辻河道から出土(第7次調査)……布留1式期
弧文板 − 家ツラ地区の大溝から出土(第50次調査)……布留0式期古相これらは、いずれも吉備の特殊器台につけられている組紐を思わせる弧帯文と同じものである。
素材は異なるが、すべて祭祀用の遺物と考えられる。
纏向遺跡で行なわれていた儀礼に吉備の影響がみられる。
そして、纏向石塚古墳の周濠からも弧文円板が出土し、箸墓古墳の後円部周辺からも特殊器台が出土している。
纏向にある古墳と吉備地方の墳丘墓とのつながりも推定できることになる。
ということは、盟主の埋葬儀礼が同盟国の影響をうけ、それを採用していることになる。
通常と逆ではないであろうか。不可解。
つぎは纏向王宮について。第20次、第162次の調査で検出されたA、B、Cの建物群では、年代を決める出土品はなかった。
第166次調査で検出された大型建物Dの柱穴をカギ状の溝(←)が壊している。
その溝から出土した土器は庄内式であり、柱穴の時期はそれ以前となる。
ただし、寺沢薫氏は溝の土器は布留0式と言っているという。
考古学での時期決定はなかなかむずかしい。
先生は建物群がどこまで広がっているか調べるために、検出された建物群の南側50mを発掘したが建物跡はなかったとのことである。
何かがみつかったという情報は発表されるが、なかったという情報はあまり公表されない。
実際に掘った人でなければ話せない貴重な情報である。
建物群と箸墓古墳の新旧関係は、建物群が先で箸墓古墳が後から造られているという。
最後は、箸墓古墳に関する朝日新聞の記事について。朝日新聞が宮内庁に箸墓古墳に関する情報公開請求をおこない、入手資料を基に記事を書いた。
2012年9月9日と12日、両日の大阪本社版である。
記事には1968年、71年、74年の宮内庁撮影の55枚の写真や調査報告の文書、図面などを入手したとある。
9日版には後円部最上段の裾部分の写真(9)があり、角礫岩(破砕されたままの石)と板石(大阪山の石)がみえる。
説明には積まれた石の下から板状の石が出土しているとある。
12日版にはこぶし大の石を積み上げたような後円部頂上部と説明のある別の写真(10)がある。
記事中に石野先生のコメントがある。
「墳頂部の全面に葺き石が敷かれた、こんな生々しい写真は初めてみた。最初の大王墓にふさわしい特異な構造だ」
12日版には宮内庁の公開資料を元に作成されたという箸墓古墳後円部頂の想像図が掲載されている。
先生は、掲載された模式図は新聞記者が想像したもので、、図のようにすべて積石になっているものは奈良県では未確認であり、想像の域を出ないという。
このあと安本先生との対談となり、安本先生から埋葬施設の槨についての質問などが出されたが、時間が押していたこともあって、結局は結論に至ることなく、また次回改めてということになった。(つづく)
写真1:本棚に並べられた纏向遺跡出土の土器(石野博信講演会資料「ヤマト纏向王宮と箸中山古墳」より)挿図2:纏向遺跡の土器の編年表(石野博信講演会資料「ヤマト纏向王宮と箸中山古墳」より)
写真3:纏向遺跡東田地区出土の弧文石(ネット「桜井市纏向学研究センター」より)
写真4:纏向遺跡辻河道出土の特殊埴輪(ネット「桜井市纏向学研究センター」より)
写真5:纏向遺跡家ツラ地区出土の弧文板(ネット「桜井市纏向学研究センター」より)
写真6:纏向石塚古墳から出土の弧文円板(ネット「くらっしゅからの復活」より)
写真7:箸墓古墳から採取されたとする特殊器台片・橿原考古博物館所蔵(ブログ「再出発日記・2010.8.4」より)
挿図8:纏向遺跡辻地区から検出された建物群の遺構配置図(石野博信講演会資料「ヤマト纏向王宮と箸中山古墳」より)
写真9:箸墓古墳の後円部最上段の裾部分の様子。1968年、宮内庁撮影(『朝日新聞』大阪本社版2012.9.9より)
写真10:箸墓古墳の後円部頂上部の様子。1968年、宮内庁撮影(『朝日新聞』大阪本社版2012.9.12より)
挿図11:箸墓古墳の後円部頂の想像図。(『朝日新聞』大阪本社版2012.9.12より)
(追 記)桜井市立埋蔵文化財センター製作の「纏向へ行こう!」という纏向遺跡ガイドマップがある。
そこに、講演で取り上げられた特殊文様の遺物について説明があるので、その部分のみを掲載する。
東田地区の弧文石(こもんせき)(桜井市大字東田)
第36次調査で溝の上層から出土したものである。
重さは24.25gで、粘板岩製と見られるが、施文の残る面は長辺4.7cm、短辺2.8cm程度しか残存しない小片であり、本来の形状は不明である。
施文面を観察すると写真の下部から左側部分にかけては施文の基準となる4本の線が引かれたままで、彫刻が施されていない部分が残る事から、製作途中で何らかの理由により廃棄されたものであろう。
庄内3式期から布留0式期のものと考えられる。家ツラ地区の弧文板(こもんばん)(桜井市大字巻野内)
導水施設へと水を供給する大溝の下部には布留0式期古相(3世紀後半)のV字溝が存在している。
弧文板は第50次調査においてこの溝より出土したもので、 導水施設より古い段階の祭祀に使用されたものと考えられている。
弧文板は欠損もあり、本来の形状は不明だが、黒漆で仕上げた優品である。辻河道出土の特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片がある。
特殊埴輪は都月(とつき)型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものである。
纏向遺跡では箸墓古墳に宮山型特殊器台と都月型埴輪が樹立されていた事が判明しており、箸墓古墳のものが河道に紛れたものであろうか。
|