12月11日の新聞各紙が、鉄製よろいを装着したままの人骨が初めて出土と報道をした。≪群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、6世紀初め(古墳時代後期)の火山灰の地層から、鉄製のよろいを着けた成人男性の人骨1体が見つかり、県埋蔵文化財調査事業団が10日、発表した。≫(産経新聞2012.12.11)
≪人骨は厚さ約30aの火山灰に覆われた溝(深さ約1b)で確認され、ほぼ全身が残っていた。榛名山に向かい、両膝をつき、うつぶせに崩れ落ちた格好だった。≫(同上)
発見された人骨の状態から、よろいを着けた武人は榛名山の噴火による火砕流に巻き込まれたようである。
避難の途中でのことか、噴火を鎮める祈りを捧げていたときのことか、いろいろと想像されている。
この発見は考古学的には素晴らしい大成果である。
しかし、一人の人間が火砕流によって命を落とした悲惨な出来事の発見でもある。
見方のよって、快挙も悲劇に変わることがある。
それはさておき、私の関心事は、この榛名山の噴火がいつの出来事かということである。
それがわかれば、この武人の着けているよろいやそばにあった鉄鏃が使われていた絶対年代がわかることになる。
近年、何から何まで古く時代を移動する傾向にあるので、特に定点で年代を知ることは大事なことである。
どこかの古文書に、榛名山の噴火のことが書かれていないだろうか。
ネットをみると、たいしたものである。やはり、調べていた人がいた。
群馬県埋蔵文化財調査事業団にお勤めの矢口裕之氏のネット 「古墳時代の災害と伝承」である。
氏によれば、室町時代に成立した『神道集』に、榛名山二ッ岳の噴火にまつわる伝承と想像できる説話があるという。
≪伊香保大明神の話が古墳時代の二ッ岳の噴火を伝えた話であれば、那波八郎の説話は、噴火災害やその後の土砂災害を物語として人々に語り伝えた伝承ではないでしょうか。≫(yaguhiro.netより)
残念ながら『神道集』からは噴火の時期は推定できないようである。
『上野国風土記』でも残っていて、**天皇の御世に榛名岳噴煙を上げ云々とでもあれば最高だけれど、無いものねだりではいたしかたない。
つぎを考えることにする。
調査団の発表には、6世紀初めとあるが、根拠はどこからきているのだろう。
ここに手がかりはないだろうか。
再び、ネットで探すと、「群馬県埋蔵文化財調査事業団|Q&A|よくある質問と回答」をみつけた。
≪Q:記録のない噴火の年代が、どうしてわかるのですか?
A:考古学では、土器の模様や形からその年代を推定しています。
例えば竪穴住居に火山灰が積もっていた場合、この住居の土器を調べることで火山灰の年代、つまり噴火の年代を知ることができます。≫
またまた、残念である。
考古遺物から噴火の時期を推定しているのでは、私の思いとは逆である。
噴火の時期から考古遺物や遺構の年代を知りたいのである。
また、最初に戻ってしまった。
とりあえず、榛名山の噴火について調べてみる。
ネットにはいろいろあるので、複数の情報をまとめてみる。
文中のテフラとは、噴火による火山灰・軽石・スコリア・火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称である。
いろいろな火山砕屑物はひとまとめに扱った方が火山噴火史や周辺の地質一般を調べる上で合理的であるため、総称してテフラと呼ばれるようになったという。
(1)5世紀、榛名有馬テフラの噴火。軽石が東麓に降る。この噴火で榛名山は活動期に入る。
(2)6世紀初頭、榛名二ッ岳渋川テフラの大噴火・Hr-FA(M4.8)。広範囲に数度の水蒸気爆発、火砕流、。県東南部の平野に降灰。
(3)6世紀中葉、榛名二ッ岳伊香保テフラの大噴火・Hr-FP(M4.9)。(2)の30年後に噴火。溶岩ドーム生成。山麓河川に火砕流。軽石降下、火山灰は東北・仙台沖まで届く。
Hr-FAによって埋没した遺跡:渋川市中筋遺跡、群馬町同道遺跡など
Hr-FPによって埋没した遺跡:渋川市黒井峯遺跡、前橋市元総社北側遺跡など
渋川市有馬条里遺跡ではHr-FAによって畑が埋没し、その後Hr-FPによって水田が埋没している。
榛名山は古墳時代に3回の噴火があり、そのうち2度は大噴火で、多くの遺跡が埋没したことがわかる。
それらの遺跡の考古学による年代で、噴火の時期を推定したらしい。
ただし、前掲の矢口氏のように、Hr-FAを5世紀末、Hr-FPを6世紀前半としているサイトもある。
火山学や地層学からの年代調査をしたものはないのだろうか。
求めよ、さらば与えられん!
あきらめずに探してみるものである。ドンピシャリの論文があった。
群馬大学・早川由紀夫氏の「榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定」である。
以下、早川氏の論文による。(要約)
2007年に寺院建設の工事現場からHr-FAとHr-FPの基本層序が確認でき、そこから計4本の樹木が出土。
うち3本が樹皮を残している。
年輪を5輪づつ切り出し、32試料を取り、得られた32測定値すべてを使ってウイグルマッチングした。
(結論)渋川噴火FAは495年+3/-6、1σ。伊香保噴火FPは520年頃。
(日本史学との関係)榛名山の噴火が495年だとわかったことは、日本古墳時代の編年に新しい科学的根拠を与える。
とりわけ、埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にかかわる定説は正しい。
稲荷山古墳は榛名山火山灰より古く、「辛亥年」は531年ではなく471年である。
よって、「獲加多支鹵大王」は雄略天皇である。
宋書にある476年に中国に遣いを送った武も雄略天皇である。
すばらしい!炭素14年代法でピンポイントの噴火年代が測定されていた。
特に注目すべきは、資料が古く値がでる土器付着炭化物でなく、樹皮まで残っている樹木を使用したことである。
今後、考古学者はこの年代を定点として、遺跡、遺物の年代を考察しなければならない。
この論文は、もっと注目されていいものである。
矢口氏の噴火年代の根拠も早川氏の論文とわかった。
下記の題名をクリックすれば早川氏の論文が見られるので、一度みてほしい!
ここまでわかった後で、早川氏の論文に触れているブログをみつけた。
ブログ「歴歩」の2012-12-10である。
運営者は東京から金井東裏遺跡の現地説明会まで出かけている熱心な方である。
ブログ「歴歩」では≪最近の調査では、FAの噴火を5世紀末(495年頃)に遡るものがある。≫と紹介しているだけで、積極的に支持しているわけではない。
でも、ちゃんと知っている人がいることはうれしい。
残念ながら、私には早川氏が発表された測定結果のグラフを検証する能力がない。
多くの方の検証を経て、早川氏の測定年代が、皆が認める年代となってほしいものである。
写真1:山の怒りを鎮める首長か 胴体部によろい着けた人骨(ネット「 KYODO NEWS SITE フォト」)写真2:上空から見た金井東裏遺跡(下)後方は榛名山(ネット「毎日jp 古墳時代のよろい」より)
挿図3:小札甲(こざねよろい)復元図(ネット「ググッと群馬」より)
写真4:溝状遺構内の甲と人骨、後ろが積もったテフラ(ネット「ググッと群馬」より)挿図5:早川由紀夫氏が行なったC14の測定結果(ネット「榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定」より)
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