館長だより 第21号
館長だより 第21号

館長の見聞録(8)

2012/12/02

   ☆ 奈良・大阪の遺跡・博物館 見学記 (その4)

  (4) 桜井市立埋蔵文化財センター

 纏向遺跡をはじめ、桜井市内で出土した埋蔵文化財を精力的に蒐集、保管、展示しているのが、このセンターである。

 展示品は旧石器時代から飛鳥・奈良時代まで古代に関するものが揃っている。

 なかでも力を入れているのが纏向遺跡コーナーである。

 南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な地域が立体模型となって展示されている。

 もっとも、調査されている面積は約5%ので、遺構や復元模型はまだ少ない。

 館内を案内してくれた学芸員の方によると、どこから何が見つかってもすぐ対応できるようにスペースを空けている待っているのだという。

 その意気込みはすばらしい。

 展示品で、すぐ目につくのが日本最古の木製仮面である。

 古代祭祀の具体像を知る一級資料という。

 アカガシの木で作られた鍬の刃の部分を利用して製作されている。

 仮面の口の部分が鍬の柄を差し込む穴にあたるところである。

 この仮面を使って、どんな儀礼を行なっていたのであろうか。

 唐古・鍵遺跡の考古学ミュージアムで見た鳥装のシャーマンとはだいぶ雰囲気がちがう。

 両者は、つながっていくのだろうか。別系統のものなのであろうか。興味がふくらむ。

 纏向遺跡から見つかった各地の庄内式系の土師器がまとめて展示されている。

 土器の移動だけでなく、人の移動も考えられ、各地から纏向に人が集まっていたことがよくわかる。

 箸墓古墳の築造時期に重要な意味を持つ木製の輪鐙も展示されている。

 輪鐙は、馬に乗るときに用いる足掛けである。

 出土場所は箸墓古墳の周濠内の纏向4式(纏向5類)(布留T式)土器の出土層であるという。

 説明パネルには4世紀前半に纏向で乗馬の風習があった証拠としている。

 従来、日本で馬具の出土は5世紀以降とされてきているが、箸墓古墳の鐙の解釈はこれでいいのだろうか。

 纏向4式土器を4世紀はじめ頃とする成果を基に、4世紀にすでに乗馬の風習を古き引き上げるか。

 乗馬は5世紀以降と考え、纏向4式土器の時期を4世紀はじめ頃することがまちがいとするか。

 桜井市立埋蔵文化財センター展示の鐙は、邪馬台国問題に関する重要な鍵を握っている。

 研究者は、互いにゆずらないが、真実はひとつである。いずれ、決着はつけなければいけない。

 別の展示コーナーで、旅行参加者のひとりが興味深い説明パネルをみつけた。

 要約すると、近年、遺跡から出土した遺物の年代と記紀などの文献に書かれている宮址などの時期が整合しないことがみられるというものである。

 みつけた人は、遺物の年代を古く見すぎているから起きたことで、もとの年代に戻せばなんの矛盾もないという。

 もっともである。輪鐙の問題と同じである。

 歴博研究グループの成果をもとに、年代設定をしていくとそのうち破綻が生じると思われる。

 はやく、目を覚まさないと、無駄な10年、20年を過すことになる。

 話は変わるが、学芸員の方に質問をした。

 ”纏向遺跡で柱穴が検出されたが、柱は抜き去られていたと説明がありました。どうしてわかるのですか?”

 ”柱をそのままに放棄すると木が腐り土が黒くなります。抜き取った場合は廻りから土が落ち込み土の色や土層状態によってわかります。”

 纏向遺跡の大型建物の柱はまちがいなく抜かれていたという。

 ということは、柱は伐採して間もなく使われる場合だけでなく、どこかで使われていたものを再利用していることがまちがいなくあるということである。

 まさか、苦労して抜いて、捨てたと考える人はいないと思うが、いかがであろうか。

 柱を抜いたということは再利用の証拠である。

 明日行く池上曽根遺跡でBC52年伐採の柱が残っていたいう報告があるが、この年代に影響されて遺跡の年代を決めてはいけないことがはっきりした。

 単なる可能性の問題ではない。

 太い丈夫な柱を手に入れることは、古代では今以上に大変なことと思われる。

 だからこそ、まだ使える柱は抜き取るのである。

 遺跡で見つかる柱の年代は、その木の伐採年がわかるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 頭の中でもやもやしていたことがスッキリとした。

 最後に、あまり見かけない展示品をいくつか紹介する。

 まず、冠帽形埴輪である。

 冠帽は名前の通り冠や帽子のことで、古代においては地位や身分よってかぶるものが決められていたらしい。

 全国でも10点ほどしか発見例がない珍しい埴輪という。

 石見型木製品も初見である。

 上部に二股に分かれた羽のような形を持つ、板状の木製埴輪である。

 魔よけの呪具か、盾を模したものか、意見がわかれている。

 完形のガラス玉鋳型や日本で最初の貨幣、富本銭も珍しい。

 博物館や資料館にはけっこう行っているつもりでも、まだまだ知らないもの、見たことのないものがたくさんありそうだ。

 だから、見学旅行はたのしい。

                                          (つづく)


  写真1:纏向遺跡の全体模型(館長撮影)

  写真2:纏向遺跡辻地区の大型建物群の復元模型(館長撮影)

  写真3:纏向遺跡メクリ地区出土の木製仮面(館長撮影)

  写真4:纏向遺跡出土の他地域からの搬入土器(館長撮影)

  写真5:箸墓古墳の周濠から出土の木製輪鐙(館長撮影)

  写真6:センターにある木製輪鐙の説明パネル(館長撮影)

  写真7:纏向遺跡坂田地区出土の冠帽形埴輪(館長撮影)

  写真8:小立古墳出土の石見型木製品(館長撮影)

  写真9:上之宮遺跡出土のガラス玉の鋳型(館長撮影)

  写真10:大福遺跡出土の富本銭(館長撮影)


 (追 記)

 桜井市立埋蔵文化財センターのカウンターの横に持ち帰り自由のパンフレット類が置いてある。

 各地で行なわれる特別展の案内がある。

 私にとって、これを見るのが博物館訪問の愉しみのひとつでもある。

 今回はパンフレット類のなかに「纏向遺跡第166次調査現地説明会資料」をみつけた。

 最初はなにげなく手にしたが、中を見て、びっくり!あの宮殿騒ぎのときの現地説明会で配られた資料である。

 説明会のあとも、センターでは資料をプリントしてセンターを訪れた人に提供してくれていたらしい。

 ひとり、1部と断り書きがある。

 目の前には10部ほどしかない。まだ奥にあるにしても、多分、今回の参加者全員には無理だろう。

 ここで、知らせるとパニックになるかもしれない。

 何人かのひとは、気がついたようである。

 私は、黙ってその場を離れた。申し訳ない。

 ただし、心配することはない。

 ネットに資料がそのまま掲載されている。

 ご希望の方はプリントされると同じものが手にはいる。

「纏向遺跡第166次調査現地説明会資料」をどうぞ。

 ついでに第162次調査の資料はブログ「じゃがべぇ〜(^_-)-☆ 2009年03月23日」のなかに掲載されている。

「纏向遺跡第162次調査現地説明会資料」をどうぞ。


トップへ

戻 る 館長だより HP表紙 進 む
inserted by FC2 system