館長だより 第20号
館長だより 第20号

館長の見聞録(7)

2012/11/11

   ☆ 奈良・大阪の遺跡・博物館 見学記 (その3)

  (3) 纏向遺跡と纏向古墳群 (纏向石塚古墳・纏向遺跡・箸墓古墳・ホケノ山古墳)

 纏向古墳群は箸中古墳群ともいう。桜井市の北部、三輪山の西麓に密集する総数20数基の古墳群をいう。

 纏向石塚古墳は、纏向小学校に接して、他を畑に囲まれている。

 傍らには説明板があり、後円部が確認できる。(後方の建物が纏向小学校)

 見ただけでは、あとはよくわからない。

 2006年までに9次の調査があり、周濠を持つ纏向型の前方後円墳であることがわかっている。

 墳丘は、後円部長径64m、短径61mの不整円形で、東南方向に前方部幅32m、長さ32m、括れ部幅約15mの前方部が付いている。

 周濠からは、庄内0式、墳丘盛土からは庄内1式、導水溝から庄内3式の土器がそれぞれ出土している。

 古墳を造ったときのものか、後からの混入とするかによって、築造時期の推定が多少異なるが、古墳時代前期初頭と推定される。

 纏向遺跡群内では最古の古墳の可能性もあるという。

 出土品には、弧紋円盤、朱塗の鶏形木製品、木製鋤、木製鍬などがある。

 つぎは纏向遺跡へ向かう。

 石塚古墳から歩いて5〜6分のところに、纏向遺跡の辻地区がある。

 今一番脚光をあびている卑弥呼の宮殿?建物群の柱穴が確認されたところである。

 発掘直後の遺跡見学会では長蛇の列だったというが、今回、行ってみたらただの空き地。

 もっとも、掘ったままにしておいたら遺構が崩れてしまうから、当然といえば当然といえる。

 しかし、これだけ注目された遺跡なのに、案内板も説明板もなにもない。

 「邪馬台国の会」の会長が、下調べをして、場所を確認していてくれたので、迷わず遺跡に行けたが、個人で行ったらたぶんわからないだろう。

 現地に立ってもなにもわからない。

 遺跡見学会当時の写真に写っている二階建ての家を見つけて、ここで間違いないとわかるだけである。

 すごい発見だと騒いだわりには、あとは何もせずにただ手をこまねいているだけ?

 いくら個人所有の土地だからといって、このままでいいのだろうか。

 纏向遺跡の調査は2009年11月で第166次を数えるが、まだ全体の5パーセントに過ぎないという。

 これから、どんな遺構、遺物が見つかるか、たのしみである。

 つぎは箸墓古墳である。

 全国で11番目に大きい前方後円墳である。

 さすがに大きくて、前方部にある鳥居の前に立つと目の前に森があるだけで、全体がよくわからない。

 全長約280m、後円部径155m・高25m、前方部幅147m・高15m。

 鳥居の横には「孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命 大市墓」の表示板がある。

 古墳北側の大池の方へまわると、前方後円墳の形が見て取れる。

 傍らには「大阪に継ぎ登れる石群らを手逓伝に越さば越しがてむかも」の石碑がある。

 日本書紀にある箸墓古墳造営の時に詠んだ歌である。

 実際、箸墓には大阪山の石が使われていることがわかっている。

 日本書紀の記事が正しいとなると、箸墓は百襲姫命の墓ということになる。

 史料上の百襲姫命の活躍時期は、卑弥呼が活躍している西暦240年と重なるのであろうか。

 箸墓の築造年代は、第81次調査で周濠内から発見された土器類を基にすれば、纏向3式期後半(布留0式)である。

 これを関川尚功氏は4世紀中頃といい、寺沢薫氏は3世紀後半とし、白石太一郎氏は3世紀中頃としている。

 第109次調査で周濠内から木製の輪鐙(馬具)出土している。同じ土層出土の土器は纏向4式(布留1式)である。

 箸墓を卑弥呼の墓と考えている人は、時期についての文献史料と考古資料の整合性をどう考えているのだろう。不可解。

 つぎはホケノ山古墳。

 箸墓古墳からホケノ山古墳までは、道幅が狭く、バスでは行けない。

 コスモスや彼岸花の咲く道を歩くのも一興。大和は秋である。

 ホケノ山古墳は1999年9月から一年かけて発掘調査が行なわれ、その後、墳丘が整備され気軽に登ることができる。

 後円部墳丘にのぼると、今までいた箸墓古墳の森が見える。やはり、大きい!

 ホケノ山古墳は、全長約80m、後円部径約60m・高約8.5m、前方部長約20m以上・高約3.5mの「纏向型前方後円墳」である。

 「纏向型前方後円墳」とは、全長、後円部径、前方部長の比率が3:2:1で、前方部がバチ形の前方後円墳をいう。

 後円部中央から石囲い木槨木棺墓(別本には石積槨木棺墓とある)が発見されている。

 現在は、埋め戻されていて見ることができない。

 主体部内からの出土した土器には、加飾の壺形土器8(纏向3式=庄内2式)、小形丸底土器3(布留式土器に酷似)がある。

 出土土器や墳丘・埋葬施設の構造から、ホケノ山古墳は箸墓古墳より一段階古い古墳と考えられている。

 この辺一帯は古墳時代前期前半の古墳が密集している。

 古墳時代前期前半が何世紀に当たるかは別にしても、大和王権にとって重要な地域であることはまちがいない。

 安本先生の解説も力が入る。

 ホケノ山古墳の前方部東側斜面からは木棺直葬墓(布留0式期新相〜1式期)も発見されている。

 こちらは復元されているので、見ることができる。

 供献用の大型複合口縁壺のレプリカもある。

 ホケノ山古墳には、もう一つ後円部上に埋葬施設が見つかっている。

 石囲い木槨の西側に横穴式石室がある。

 6世紀末ごろの構築と推定されている。残念ながら、こちらも見られない。

 小雨にぬれながら、バスへ戻る。

 途中で、卑弥呼の里の看板が眼に入る。苦笑。

                                          (つづく)


  写真1:纏向石塚古墳の説明板(館長撮影)

  写真2:纏向石塚古墳の後円部(東より)(館長撮影)

  写真3:現地説明会のときの纏向遺跡の建物群跡(ネット「備前焼の店 まほろば」より)

  写真4:現在の纏向遺跡の建物群跡のその後(館長撮影)

  写真5:箸墓古墳(北より)(館長撮影)

  写真6:箸墓古墳前方部で解説をする安本先生(館長撮影)

  写真7:箸墓古墳横にある歌碑(ブログ「じゃがべぇ〜(^_-)-☆ 2010年05月21日」より)

  写真8:ホケノ山古墳(前方部東側から後円部を望む)(ネット「とんぼ・ど・しろーと 卑弥呼の鏡」より)

  写真9:ホケノ山古墳の後円部上で解説をする安本先生。後方に箸墓古墳の森(館長撮影)

  写真10:ホケノ山古墳の前方部東側の復元されている木棺直葬墓(ネット「古墳Wiki ホケノ山古墳」より)

  写真11:箸墓古墳付近で見つけた卑弥呼の看板(館長撮影)


 (付 記)

    纏向古墳群内の主な前方後円墳7基の比較対照表 (ウィキペディア「纏向古墳群」を基に作成)
 古 墳 名  墳丘長 (m)  主な出土遺物 時期・Wiki時期・橋本輝彦時期・関川尚功 備 考 
 纒向石塚古墳 約96 弧文円板、朱塗鶏形木製品、
 纒向1類の完形土器
 2C末-3C前半 庄内0か庄内3  纒向1 周濠底より測定年
 AD177のヒノキの板材
 纒向矢塚古墳 約96 庄内3式土器群、墳頂部板石が露出 3C中葉以前 庄内3 纒向3 周濠あり
 纒向勝山古墳 約115 木製の刀剣把手、U字形木製品、
 団扇、布留0式期の土師器
 3C中葉以前  庄内2か布留0 4C代初頭 周濠あり
 東田大塚古墳 約120 銅鏃60、鉄鏃60、素環頭大刀、
 刀剣類、画文帯神獣鏡3 、
 土師器(布留0式)、木製品
 3C中葉以前 布留0 4C代初頭 周濠状遺構あり
 ホケノ山古墳 約80 画文帯神獣鏡、その他鏡片、
 素環頭太刀、その他鉄製品多数
 3C中葉以前 庄内3  周濠状遺構、葺石あり
 南飛塚古墳 推100 建物の壁材  布留0か  周濠あり
 箸墓古墳 約280 特殊器台形埴輪片、壺形埴輪片、
 有段口縁の底部穿孔壺形土器
 3C中葉-後半 布留0 纒向4=布留1 周濠、葺石あり

           築造時期のWikiはウィキペディア「纏向古墳群」より掲載。
           築造時期の橋本輝彦は『続・日本古墳大辞典』(東京堂出版・2002)より掲載。
             橋本氏は、庄内0(3C初頭)、庄内2(3C前半)、庄内3(3C中葉)、布留0(3C後半)としている。
           築造時期の関川尚功は『日本古墳大辞典』(東京堂出版・2002)より掲載。
             関川氏は、纏向1(3C末か4C初頭)〜纏向4(4C中頃)を考えているようである。

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