館長だより 第18号
館長だより 第18号

館長の見聞録(5)

2012/10/14

   ☆ 奈良・大阪の遺跡・博物館 見学記 (その1)

 「邪馬台国の会」主催の旅行会に参加した。

 「安本美典先生と訪ねる奈良・纏向遺跡と巨大古墳、特別講演会の旅」である。

 古代の大和地域をこの眼で見学し、安本氏の解説が聞けて、夜には石野博信氏の講演もある。とても愉しみである。


  (1) 唐古・鍵遺跡と考古学ミュージアム

 唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあり、4〜5条の溝がめぐるの多重環濠集落である。

 集落は弥生時代前期にはじまり、古墳時代前期に環濠が消滅し、わずかに続いた集落も後期には消滅するという。

 弥生時代全期間を通して集落が営まれた土地である。

 そのため、弥生時代の全ての時期の土器が出土し、近畿地方はもちろんのこと、全国の弥生時代の土器編年の基準となっている。

 畿内第T様式、第U様式、……がそれである。

 最近、邪馬台国関連でよく耳にする庄内式は、第X様式(研究者によっては第Y様式)の後に位置する土器型式である。

 庄内式土器が弥生時代最後の土器で、つぎに古墳時代最初の布留式土器がくる。

 布留0式土器はその狭間で生れ、苦しい立場にいる。自分は弥生土器か、土師器か。こんな私にだれがした。

 遺跡には、唐古池(後世のため池)のほとりに土器に描かれた絵から想像された復元楼閣が建っている。

 古木を使って建てられたようで、時代を感じる趣きがある。

 しかし、遺跡周辺には往時をしのばせるものが、ほかに何もない。

 500m×400mを誇る大環濠集落も楼閣ひとつでは、いかにも寂しい。

 ♪松風さわぐ 池のふち 古楼よひとり なに偲ぶ 栄華の夢を 胸に追い あ〜ぁ ……

 そういえば、絵画土器が発見されたとき、想像された楼閣は2階建て案と3階建て案があったと思うが、3階建て案はどしたんだろう。

 現地の説明版はこのこと触れていない。

 もう、だれも言わない。目の前に2階建てがあれば、それでもう決まりということか。

 視覚に訴えれば、議論はいらない。マスコミに訴えれば、議論不要となんかにているなあ。独言。


 復元楼閣から南へ2kmほど行ったところに、唐古・鍵考古学ミュージアムがある。

 ここには、唐古・鍵遺跡から出土した遺物をはじめ、周辺の遺跡からの遺物も展示されている。とてもすばらしい。

 ボランティアガイドの方の説明もお願いできる。熱心でわかりやすい。

 部屋に入ってすぐ、ガラス張りの床の下に大型建物跡から出土した柱が出てきたときのまま展示されている。

 よく残っていたものである。遺跡が低地のため常に水分に守られていたためらしい。

 そのせいか、木製品の出土が多い。炭化した穂束まで見つかっている。これはめずらしい。

 特異な出土品としては絵画土器がある。ここでの出土数は100点ほどあり、それは全国出土の3分の1を占める。

 復元楼閣の元になった建物、矢負いのシカ、舟の櫂、盾と戈を人物、そして女性シャーマンと思われる両手を上げる人(清水風遺跡)などの絵画土器がある。

 これら土器の絵と遺跡の遺構をもとに弥生時代のムラの生活場面が模型で再現されている。

 ここでしか見られないものに、褐鉄鉱容器に納められたヒスイ勾玉2点がある。

 俗な考えで申し訳ないが、開運!なんでも鑑定団に出したらいくらの値がつくだろう。聞いてみたいものだ。

 つぎの部屋には銅鐸の鋳型、銅塊、銅滓、送風管が展示されている。作りそこないの銅鐸片もある。

 唐古・鍵集落は、銅鐸製造工房のムラでもある。

 銅鐸製造のビデオ放送も見られる。

 最後の部屋に、時代は違うが、重要文化財に指定された牛形埴輪がと人間国宝の故・吉田文之製作の撥鏤(ばちる)がある。これもすばらしい。

 撥鏤は奈良時代の尺指しである。

 正倉院御物のなかに吉田のもとになった撥鏤が保存されている。

 ミュージアムの展示品の多さ、質の高さに感服である。


 唐古・鍵遺跡はこの地域の中心的存在であることがよくわかる。

 解説と展示方法もすばらしく、密度の濃い時間を過すことができた。感謝。

 部屋をでると遠くに山並みが見える。

 ホールの壁に、ヤマトタケルの歌が書かれている大きな額が掛けられている。

 大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和し美はし

 いま見ている青くかすむ山並みが、まさにたたなづく青垣、そのものである。

 しばし、ときをわすれる。

 大和は国のまほろばとはよく言ったものである。あ〜、実感。

                                (つづく)


  挿図1:上空より見た弥生時代の唐古・鍵の集落想像図(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真2:唐古・鍵遺跡紹介のパンフレットの表紙(田原本町教育委員会 発行)

  写真3:大型建物跡の柱穴遺構(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真4:稲関係出土品 @穂束 A炭化籾 B炭化米(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真5:手を挙げる鳥装のシャーマン模型(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真6:祭祀の場面の想像模型(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真7:褐鉄鉱容器に納められたヒスイ勾玉 @褐鉄鉱容器 Aヒスイ勾玉 Bヒスイ勾玉 C蓋に使われた土器片(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真8:銅鐸関係遺物 @石製鋳型 A石製鋳型 B鋳造に失敗した銅鐸 C青銅の残滓 D青銅の塊(ネット「唐古・鍵考古学ミュージアム」展示品紹介より)

  写真9:人間国宝の故・吉田文之氏の作品「撥鏤尺」(館長撮影)

  写真10:大和青垣最高峰「龍王山」とミュージアムに飾られているヤマトタケルの歌(ブログ「山彦輝のブログ」とネット「邪馬台国大研究 唐古・鍵遺跡から天理へ」より作成)


 (付 記)

 唐古・鍵遺跡に建てられた楼閣の推定復元図をみつけた。

 『朝日新聞』の1992.5.21付けの第1面にでている。

 ≪土器片に「楼閣」の絵 中国式2、3階建て 奈良・弥生中期交流示す≫と見出しがある。

 やはり、3階建て案と2階建て案の二つがあったのは間違いなかった。

 ≪弥生時代の全国最大級の環濠集落、奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡から、二階建てか三階建ての建物(楼閣)を描いた土器片(弥生中期、一世紀前半)が見つかった(略)
 土器片は二つで壺の一部。(略)
 二つの間が欠けているため、二階建てか三階建てと町教委はみている≫と記事にある。

 ≪絵を復元すると、最上階の棟の長さ1.8cmに対して全体の高さは17.5cmと十倍近くなり、実際の建物にあてはめればかなりの高層と推定される。≫とも書かれている。(復元楼閣の高さは12.5m)

 ≪邪馬台国にあったとされる楼観がどんな建物だったかは確かではない。
 しかし、従来考えられていた望楼のような一重一階の高い建物ばかりでなく、この絵のような技術的にすぐれた楼閣も重要な候補といえる。≫と建築史研究家の鈴木嘉吉氏が語っている。

 『日本の遺跡1991−1995 新遺跡カタログVol.4』には別の話もある。

 ≪二つの破片は同じ絵の上下かどうかはわからない。一つの土器のものということは確かだ。
  高さはどうだろう。「建築の専門家は二階が妥当といいます。
 一方、土器の大きさのバランスから考えると三階建てになる」と藤田(三郎・町教委)さん。≫

 発掘土器の発表から復元楼閣の建築までの間に田原本町の教育委員会ではどんな議論がなされたのだろうか。

 予算の関係で、なんてことはないと思うが、なにが決め手で二階建てなったのだろう、そこが知りたい。


  挿図:二つの土器片をつなぎ合わせた推定復元図(『朝日新聞』1992.5.21より作成)


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