館長だより 第103号
館長だより 第103号

安本作品 あれこれ(14)

2017/08/13

   ☆激闘! 安本美典VS古田武彦 その4

 1986〜1988年度に、佐賀県・吉野ヶ里遺跡の本格発掘調査が行なわれた。

 調査の結果、弥生時代前期から後期にかけての環壕を伴う大集落と甕棺墓群が発見された。

 吉野ヶ里遺跡は邪馬台国か、あるいは女王国に属する一国か、話題が沸騰した。


 1989年に安本氏は二冊の著作と雑誌に一つの論稿を発表している。

 『吉野ヶ里遺跡と邪馬台国』(1989.6・大和書房)(図10)
 「論争二七〇年余「幻の女王国」は何処に」(『プレジデント '89.7号』プレジデント社 所収)(図11)
 『吉野ヶ里の証言』(1989.7・JICC出版局)(図12)


 この三作で安本氏、は吉野ヶ里遺跡を詳しく取り上げ、自身の考えを述べている。

 と同時に、古田氏の豹変?を批判している。

 内容がほぼ同じなので、『吉野ヶ里遺跡と邪馬台国』から要約で引用する。


 〈古田武彦氏は、これまで奥野正男氏や私(安本)が述べてきた筑後川北岸説を、
  攻撃しつづけてきた。
  「鉄器出土の遺跡数から見ても、奥野氏(また安本氏)のような、内陸部
  (筑後川流域等)中枢説が、客観的には成立しえないことが判明しよう。」
  (「」は古田文)
  筑後川流域に、鉄器などの物が少ないなどの古田氏の発言は、事実に反する。
  このように、不確かな事実をもとに、筑後川北岸中心説、
  筑後川流域中枢説を熱心に批判攻撃し、博多湾岸中心説を主張して
  やまなかった人が、筑後川北岸、筑後川流域である吉野ヶ里から遺跡が
  発掘されると、手のひらをかえしたように、『週刊文春』に記す。
  「『ああ、やっぱりあったか。そうでしょう、そうでなきゃおかしい』
  そういう『ついに出たか』という驚きだったのです。」(古田文)
  「吉野ヶ里もその首都圏の一端に当っていると言っていいでしょう。」(古田文)
  「こうした点からも、この一帯が倭国の中心部であるとの感を
  深くしました。」(古田文)(中略)
  「(吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の)中心部には最も尊貴な人物が
  眠っている可能性があります。」(古田文)
  「中心に眠っている人物が倭王であっても全く不思議ではない。
  それが卑弥呼であるとは限りません。次代の壱与かもしれない。
  あるいは、副王クラスかもしれません。」(古田文)
  これまで古田氏の「博多湾岸中心説」を知っている人たちにとっては、唖然とする
  発言ではないだろうか。なんという無節操。なんという無責任であろう。〉


 古田氏は反論する。

 「「筑後川の一線」を論ず」―安本美典氏の中傷に答えるーである。(図13)

 『東アジアの古代文化 61号』(1989.10・大和書房)に所収されている。要約で引用する。

  〈先ず、ハッキリさせておくべきこと、それは「インタビュー記事」であって、
  わたしの「作文」ではない、という、この一点である。
  驚きの内容は、大規模な環濠集落が近畿にしかなかったのが、
  九州から今までにないほどの規模で出現したということです。
  朝日新聞には、「かねてから「筑紫・邪馬壱国」説を唱えてきた古田氏は
  『北部九州に点在していた倭の諸国の一つであることは間違いない。
  しかも、地理的に邪馬壱国に近い中心的な国家だった可能性がある。』とある。
  首都圏とは、中国からの剣、鏡、錦の分布から想像できる博多湾沿岸から、
  春日市、太宰府、筑紫野市、朝倉町、神崎町になる。
  神崎町はこの分布領域の一端に属する。
  「古田新説」なるものは私のあずかり知らぬ”夏の夜のまぼろし”である。〉


 こんどは、安本氏の反論である。

 「「奴国の滅亡」を論ず」―古田武彦氏の欺瞞と罵倒に答える―である。(図14)

 『東アジアの古代文化 63号』(1990.4・大和書房)に所収されている。要約で引用する。

  〈古田氏は『週刊文春』の記事はインタビュー記事で、自分のあずかり知らぬ
   ものというが、同様のことを『週刊朝日』に自身が記している。
   「この墓(墳丘墓)はズバリ言って、卑弥呼と同等の倭王ないし
   副王クラスの王墓だ。」(古田文)〉

 古田氏は『吉野ヶ里の秘密』(1989.6・光文社)にも書いている。

  〈「(墳丘墓中央の巨大甕棺から)金印とまでいわずとも、せめて銀印くらいは、
   出土するかもしれぬ。ぜひ、なにか『文字』が出土してほしい。」(古田文)
   しかし、卑弥呼女王の時代は、「甕棺の世界」ではない。
   そのことは、すでに、(高倉洋彰氏らの)多くの専門家が、詳論している。
   「甕棺の中にもっとも質量豊富な副葬品をもつ地域」が、邪馬壱国の最中枢地、
   とする古田氏の議論は、たんに古田氏の「思い込み」に基づくものにすぎない。〉

  〈古田氏は、筑後川以北からのみ、筑紫の権力(邪馬壱国)の遺物が出土する
   かのように論じているが、事実は、異なっている。
   もし、銅矛や銅戈をも、筑紫の権力の遺物とみなす古田氏の立場にたてば、
   筑後川以南の福岡県八女郡広川町藤田から18本、八女市吉田から13本の、
   広形銅矛が出土している事実をどう説明するのか。
   古田氏は、あまりにも事実を無視しすぎる。〉

 安本氏は、文末に胸中を語る。

  〈(古田氏との論争は、他の論者と同様に)私なども、次元の低い論争である、
   と思いながら、正しいと思えない議論が世上に横行するのを放置しておくのも
   いかがなものかと思い、あえてペンをとっているのである。〉


 だが、論争は終らない。つづく。


  図10:安本美典『吉野ヶ里遺跡と邪馬台国』(1989.6・大和書房)の表紙。

  図11:『プレジデント '89.7号』(1989.7・プレジデント社)の表紙。
      安本美典「論争二七〇年余「幻の女王国」は何処に」を収録。

  図12:安本美典『吉野ヶ里の証言』(1989.7・JICC出版局)の表紙。

  図13:古田武彦「「筑後川の一線」を論ず」―安本美典氏の中傷に答える―の1頁目の一部
      『東アジアの古代文化 61号』(1989.10・大和書房)に所収

  図14:安本美典「「奴国の滅亡」を論ず」―古田武彦氏の欺瞞と罵倒に答える―の1頁目の一部
      『東アジアの古代文化 63号』(1990.4・大和書房)に所収


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