古田氏は1973年8月に『失われた九州王朝』(朝日新聞社)を刊行している。(図7)副題に「天皇家以前の古代史」とある。
帯に著作の要旨がある
〈前二世紀から七世紀まで倭国と呼ばれ
中国と通交していたのは卑弥呼をふくむ連綿たる九州王朝だった。
それは近畿の天皇家に先在した!〉目次を見ると、そこに壮大な歴史がある。
(1)邪馬壱国以前、(2)「倭の五王」の探究、(3)高句麗王碑と倭国の展開、
(4)隣国史料にみる九州王朝、(5)九州王朝の領域と消滅。
それに対して、安本氏が『古代九州王朝はなかった』(1986.6・新人物往来社)を刊行している。(図8)副題に「古田武彦説の虚構」が付いている。
帯に衝撃的な文言がある。
〈古田説は蜃気楼!!
「邪馬壱国」説は古刊本の表記を原文と混同した説であり、
「九州王朝」の存在を示すいかなる文献も証拠もない!!〉古田氏の見解としては、倭の南鮮への侵略は大和朝廷ではなく、
九州王朝によるものであり、倭の五王も九州王朝の王であるという。それらを、安本氏は批判する。
〈神功皇后の新羅進出については、(大和朝廷の記録である)『古事記』『日本書紀』『風土記』ともに記し、
朝鮮側の『三国史記』『三国遺事』あるいは、「広開土王碑碑文」などにも、対応する記事がある。
日本側の史書と朝鮮側の史書とが、こぞって、日本の新羅進出を載せている。〉〈ところが、『三国史記』『三国遺事』の記事と、照応するような、九州王朝の確実な文献は皆無である。〉
〈古田氏のいうところの、「九州王朝」はなかった。
それは、すべて古田氏の空想の所産である。
想念と、それにもとづく解釈だけあって、証拠はまったくあげられていない。
実証とは無縁の思いつき史学である。〉
ちょっと、脇道逸れる。だれが言っていたか忘れたが、古田氏の本は九州王朝の通史のように書かれているが、年代がメチャクチャだという。
そういえば、(2)倭の五王はウィキペディアによると413〜502年で、5世紀前半〜6世紀初。
(3)高句麗王碑は書かれている記事が399〜404年で4世紀末〜5世紀初。
(3)には日出づる処の天子もある。このときの遣隋使は607年で7世紀初。
(4)には磐井の反乱がある。527〜528年で6世紀前半。古田氏はこれらの出来事を、独自の検証によって目次の順と年代を解釈しているのだろうか。
私には、不可思議である。
前回の対談から8年後、1988年4月に両氏の公開討論会が再び開催された。邪馬台国研究会(福岡・主宰橋田薫)が企画したシンポジウム「古代日本国家成立の謎を解く」である。
福岡市で二日間にわたって行なわれ、約200人が詰めかけたという。
その討論会のことが、『歴史読本 490』(1988.12・新人物往来社)に岡本顕実氏によって報告されている。(図9)
「特別シンポジウム「邪馬台国」大論争 古田武彦 VS 安本美典」である。
初日は両氏の自説講演が一時間づつあり、二日目に討論対決が行なわれた。
討論の一部を要約引用する。
安本:皆さん、私と古田さんとの議論をお聞きになってどこに食い違いがあるか、おわかりでしょうか。
古田さんは璧が大変重要だ、と言うけれど、『魏志倭人伝』には璧の話はまったく出てこないんです。
しかも璧は甕棺から出てくる。卑弥呼の時代とは違うんです。
絹も同様です。弥生後期のわずか3例について、非常に強調される。
ところが鉄については「数が少なすぎる」のひと言で片付ける。古田:鉄矛問題は一般兵士が鉄矛を持っていたにしては36例では少なすぎると言ったので、
一般兵士の武器は石の矛とか弓矢だったからです。
璧や絹の数と鉄矛の数を同一に論じているが、これは無茶苦茶。安本:統計学を少しでも学んだ方なら容易に判るが、2例中の1例という場合と
100例中の50例では、同じ50%でも誤差の幅が全然違う。
統計資料としては、鉄矛の36例はかなりの証拠になる、と言っておきます。−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
安本:古田さんの九州王朝説はおかしい。
『三国史記』を見ても高句麗好太王碑を見ても倭の軍隊がたびたびやって来た、とある。
『古事記』『日本書紀』にも神功皇后が朝鮮に出兵し新羅と戦った、とある。
私は倭の軍隊とは大和朝廷が派遣したもの、と思うが古田さんによれば九州王朝の軍隊となる。
私は当時、一万人もの軍隊を派遣できる財政的・政治的主体は大和朝廷以外になかった、と考える。古田:百済や新羅の古墳を見てください。大きなものがないでしょう。
戦争が続いて、でっかい古墳をつくる余裕がなかった。
ところが大和朝廷は大きな古墳をつくり鉄テイを貯めこんで……。
つまり朝鮮出兵は実はなかったんだ、という見方もできるんです。討論記事の最後にレポ^ター・岡本氏の感想がある。
〈一方が、自説を論証しつつ相手の説に反論を加えると、
他方は新たな論点を用意していて、討論は多岐、多方面に及び、
時に自説を述べるに熱心のあまり相手に厳しい口調になった場面も見られたが、
両氏は終始、冷静な態度であった。〉論争は、まだまだつづく。
図7:古田武彦『失われた九州王朝』(1973.8・朝日新聞社)の表紙。図8:古田武彦『古代九州王朝はなかった』(1986.6・新人物往来社)の表紙。
図9:『歴史読本 490』(1988.12・新人物往来社)の表紙。
岡本顕実「特別シンポジウム「邪馬台国」大論争 古田武彦 VS 安本美典」所収。
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