館長だより 第101号
館長だより 第101号

安本作品 あれこれ(12)

2017/07/30

   ☆激闘! 安本美典VS古田武彦 その2

 安本美典氏は『「邪馬壹国」はなかった』(1980.1)のなかで古田武彦氏の議論の本質について書いている。(前号図2)

  〈私は、古田武彦氏の議論は、本質的には、強力な「信念の論理」を骨格とし、
   それに、やや「強弁の論理」がまじり、さらに論敵を打破し、揶揄し、
   嘲笑する巧妙なレトリックをそなえたものであると思う。〉

 『東アジアの古代文化 23号』(1980.4)に、古田氏による安本氏への批判文が出る。(図3)

 「九州王朝の証言(六)―後藤義乗氏と安本美典氏に答える」である。


 まず古田氏は、余裕綽々の如く自分への批判文への感謝を述べる。

  〈(この一両年、)わたしの説への批判を主要内容とした三冊もの著書が
   この世に出現するとは。まさに探求者冥利に尽きる思いです。〉

 この三冊は白崎昭一郎氏、佐藤鉄章氏、安本美典氏らの著作で、安本氏は『「邪馬壹国」はなかった』である。

 ところが、古田氏の第一声は、著作の内容についてではない。

 安本氏が9年前に書いた書評(1971)の一文を引用して、批判をしている。

  〈じつは、私(安本)も、古田氏と、同様の調査を行ないつつあった。
   そして、古田氏と同様の結論を得つつあった。〉

 それが、安本氏の『東アジアの古代文化 9号』(1976.7)の文章から、この部分がきれいにカットされていると、古田氏は指摘する。

  〈これは読者に対する、一種の”心理的詐欺”、そういったら過言でしょうか。〉と古田氏は揶揄する。


 それに対し安本氏の反証が出る。

 『東アジアの古代文化 25号』(1980.10)の「「邪馬壹国」論への反証―古田武彦氏に答える」である。(図4)

 書評の時点では、行ないつつあった、得つつあったという進行中である。

 調査が完了した時点で、古田説がまったく成立しないことがわかった。

 そのために、今回〈九年前の「進行形」の文章の部分をカットしたのは当然である。〉


 論争の舞台が『東アジアの古代文化』に加えて『季刊邪馬台国』へも拡大する。

 1980年4月の『季刊邪馬台国 4号』に安本氏の論考に対して、古田氏の論考が出る。

 「わたしの学問研究の方法について(下)」である。

 それに対して、安本氏の反論が『季刊邪馬台国 5号』(1980.7)に載る。

 「「邪馬壹国」論は成立しない―古田武彦氏に答える」である。

 4号、5号、二誌の文章をまとめて掲載する。

 古田氏が安本氏の邪馬]国、呉志残巻、仮説の重層主義、版本の新古、韓伝・倭人伝短里説、小山修三氏の分布図などを取り上げ、批判する。

 安本氏は、古田氏の批判に対して、その一つ一つに答え、批判を批判する。

 たとえば、古田氏は安本氏の邪馬]国論について、いう。

  〈「邪馬]国」論は「邪馬台国」論者の”隠れ蓑”にすぎぬ。
   自己の好む判定(邪馬臺国)を下すための中間設定だ。
   その”衣の下の鎧”がちらちらしている。〉

 安本氏は、これについてはすでに他誌で古田氏にお答えしているのでくりかえさないと切り捨てている。

 ここへ来て、論争は拡大しているが、色合いが変わってきた。

 方法論の確定、語彙の確認は、同じ土俵で討論する上で必要であることは当然である。

 しかし、そればかりに固執して、邪馬台国の問題とは離れてしまっては元も子もない。

 感情的に、言い合う場面が増えてきているように私には思える。

 内容的にはなんら進展がない、繰り返しばかりである。とても残念である。


 そんな流れを打破するように、1980年4月に中央公論社の企画で二人の対談が実現する。

 司会は、作家であり、『季刊邪馬台国』の初代編集長である野呂邦暢氏である。

 このときの対談が『歴史と人物 107』(1980.7・中央公論社)にある。(図5)

 「熱論「邪馬台国」古田武彦・安本美典」である。

 対談のテーマは、2点に絞られて行なわれた。

 ・「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か
 ・「魏晋朝短里」をめぐって

 互いに資料を出し合い議論するが、どうしても論点が噛み合わない。

 論争記録の最後に野呂氏のあとがき「司会を終えて 息詰まる七時間」がある。

  〈今回の論争はのっけから緊迫した空気で始まった。
   進行するにつれてその緊迫感は高まり息苦しささえ感じたほどである。
   なれあいはお二方とも拒否した。まずは理想的な論争といっていい。〉

  〈安本氏は数理文献学が専門である。恣意的な解釈によらず、現象を定量的に
   分析しようとする。あいまいさに対してきびしい態度でのぞむのである。
   そのきびしさは古田氏もまた同じなのだが、
   どちらかといえば数学に強い安本氏の要求する「客観」の基準と、
   古田氏の考える「明証」の基礎は、初めからくいちがっているように感じられた。
   ものさしが異なるのである。いずれのものさしで古代史を測れば正しいのかは、
   文字となったお二方の発言を読んで、読者が判断すればいいことだ。〉

  〈お二人とも求める答えが得られないとき、興奮することはあったが、
   終始、冷静さは失わなかった。
   これは勝敗を争う論争ではない。くいちがいはくいちがいとして、お二人の
   主張をはっきりと明確にすることが出来た点は一つの成功と私は考える。〉

 この稿の執筆直後、野呂氏は5月に急逝されている。


 野呂氏が亡くなられて、『季刊邪馬台国』の出版社梓書院は新たな編集長を必要とする。

 1980年10月発行の『季刊邪馬台国 6号』から、安本美典氏が編集長となる。



 1982年、水を得た魚のように、神剣を授かった日本武尊のように、存分に活躍の場を得た安本氏が古田氏への激稿を続けて発表する。

 『季刊邪馬台国 12号』(1982.5)−魏晋朝短里説批判(1)
 『季刊邪馬台国 13号』(1982.8)−魏晋朝短里説批判(2)
 『季刊邪馬台国 18号』(1983.12)−古田武彦説の文献学的、心理学的検討(図6)

 まず、12号誌で、安本氏は古田説の要点を三つにまとめ、矛盾点を衝く。

 古田氏は、@『三国志』内の里程はすべて短里、
        A魏晋朝の里程は前代・後代とは異なる、
        B同一本内に二種の里程は存在しない、と説く。

 安本氏は、『三国志』の「魏志・劉表伝」の一文を取りあげる。

 〈北、漢川に拠る。地、方数千里。帯甲十余万。〉

 この方数千里を古田氏は短里にもとづくこと明白という。

 ところが、同一の文章が、『後漢書』「劉表伝」にもある。

 『後漢書』の文を『三国志』と同じ短里と解釈をすれば、Aに反することになる。

 この文は『三国志』を写しただけで、『後漢書』の他の里程は長里とするとBに反する。

 この12号誌に、安本氏が作成した『三国志』「里」数値一覧 がある。

 『三国志』にあるすべての里数が掲載されている。

 本文・189例、裴注文・180例は圧巻である。

 ほかに、「歩」数値一覧もある。

 検証は基礎的な地道な作業の積み重ねからなると痛感する。


 13号誌では、安本氏は篠原俊次氏の精密な調査研究を紹介する。

 『三国志』の中国本土おける里程記述で「長里説」を確実に支持する事例はいくつも存在する、という。

 古田氏のいう「魏晋朝短里説」を確実に支持する事例は一例もない、と断言する。

 それらを証明するために、安本氏は多くの事例を掲載する。

 たとえば、「エン水に到る。ギョウを去ること五十里。」(「魏志・袁紹伝」)である。

 (エンは、サンズイに亘。ギョウは、業にオオザト。)

 ギョウ都故址の場所は調査によって確認されている。

 エン水は河川の名であり、曹操の到着地点の特定はむずかしいが、とりあえずギョウに最も近いエン水の川岸とする。

 「東亜五十万分一地図」で道路に沿って実測すると、19kmとなる。

 50里が19,000mならば、1里は380mとなる。

 魏代の1里は通常434mとされている。

 曹操の到着地点をギョウからすこしでも離れた場所に考えると、1里は380m以上となる。

 離れれば離れるほど、1里は434mに近づく。

 どちらにしても、古田説のいう1里=約75mにはならない。

 「ギョウを去ること五十里」は短里ではありえない。


 18号誌は、特集が「今、古田武彦説を批判する」である。

 所功氏、三木太郎氏、後藤義乗氏、角林文雄氏ら八人の論文が並ぶ。

 安本氏の論文は「古田武彦説の文献学的、心理学的検討」である。

 今回、安本氏は、古田氏の「臺(台)の字は神聖至高の文字論」に多くのページを割いている。

  〈古田氏はいう。『三国志』においては、「臺に詣る」などの用法にみられるように、
   「臺」は、「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」という意味で使われている。(中略)
   「特殊至高文字」「神聖至高文字」である「臺」の字が、
   倭の女王国の名を記すのに、用いられるはずがない。〉

 これに対し、安本氏は古田論に従わない3例を提出する。

 (1)三木太郎氏が指摘する「緜竹において『臺』をきづき、もって京観とせしむ。」(「魏志・ケ艾伝」)の例を示す。

 京観とは、敵の死体を積み重ねて築いた塚をいう。

 敵の死体の血潮でけがれている「臺」が神聖至高文字であろうか。

 (2)蜀の県名に「定サク、臺登、卑水の三県は郡を去ること三百余里。」(「蜀志・張嶷伝」)に「臺」がある。

 (サクは草カンムリに作。)

 古田氏は、三国時代、魏は劉備や孫権を蜀賊、呉賊と称した、という。

 魏に従わない蜀の地名に「臺」という神聖至高文字を許すのであろうか。

 (3)臺の字は、人名に用いられている。「張子臺」「王偉臺」などである。

 天子の宮殿を意味する特殊至高文字を一般の人の名に用いていいのであろうか。

 敵の死体の血潮でけがれている場所に、蜀賊の地名に、一般人の名前に神聖な文字「臺」を用いた陳寿はなんのお咎めもないのであろうか。

 これらは、古田氏のいう「臺」は神聖至高文字であるという仮説を取り除けば、なんの問題もなくなる。

  〈以上をまとめれば、古田氏は、みずからの「解釈」によって、
   「臺」の字に「神聖至高」性を付与しているだけである。
   「神聖至高」などは、文献的「事実」によるものではない。〉

 論争は、まだまだつづく。


  図3:『東アジアの古代文化 23号』(1980.4・大和書房)の表紙。

  図4:『東アジアの古代文化 25号』(1980.10・大和書房)の目次の一部分。

  図5:『歴史と人物 107』(1980.7・中央公論)の表紙。
     特集・熱論「邪馬台国」古田武彦・安本美典

  図6:『季刊邪馬台国 18号』(1983.12・梓書院)の表紙。
     特集・今、古田武彦説を批判する


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