安本美典氏と古田武彦氏の論争を精力的に取り上げてきた『東アジアの古代文化』の編集発行人・大和岩雄氏が最後の決断を下す。二人の最後の論争対決を企画し、その対談を誌上に掲載して、終了にすると宣言をしたのである。
〈安本さんの文章に対して古田さんの反論を載せたら、
また安本さんが反論を書き、きりがありません。
今日の対談で、この問題について一応区切りをつけたいと思い、企画したわけです。〉この対談が『東アジアの古代文化 第66号』(1991.1・大和書房)に掲載されている。
「邪馬台(壱)国をめぐって 安本美典・古田武彦 司会・大和岩雄」である。
要約で引用する。司会の大和氏は、まず二人に釘を刺して、討論をはじめる。
大和:話し合っていただくのは61号の古田論文と63号の安本論文の問題にかぎります。
「邪馬台国」の所在について、古田さんは博多湾岸に中心があると言われ、
安本さんは朝倉町を中心にした筑後川の北岸だと言われます。
古田さんは、倭国は九州全土と瀬戸内海の一部だ、倭国全体の中心部にあたるのが、
「博多沿岸から、春日市、太宰府、筑紫野市、朝倉町、神崎町といったところ」
とおっしゃっておられるので、それをいちばん先にお話ください。安本:「吉野ヶ里がしめした道標」だというのを読むと吉野ヶ里が最中枢部入る気がする。
吉野ヶ里は中枢部の中に入っているんですか。それとも入っていないんですか。古田:(邪馬壱国は)戸七万ですから、そんなに狭くありません。
福岡市、春日市、太宰府市、筑紫野市、朝倉郡、小郡市という範囲を考えています。
そこから先の筑後川の南岸部が入るか、佐賀平野が入るかは、『倭人伝』からは不明です。
入るかもしれないし、入らないかもしれないというのが私の立場です。大和:古田さんが明快に「吉野ヶ里は中枢といっても、いちばん端っこだ」と言われたので、
神崎町あたりはいちばん端っこという意味で言っているのかなと取るんです。安本:古田さんは奥野さんや私などの筑後川北岸中心説はダメだとたびたび主張してますが、
中心部の一部だったら、なぜ今まで盛んに攻撃されてきたのか理解できない。対談は盛んだが、なかなか明確な答えが出ない。しばし、同様なやりとりを繰り返す。
行き着いた古田氏の考えをまとめるとこうなる。
倭国は、九州全土と瀬戸内海の一部を含む範囲である。
倭国の中心部は邪馬壱国、伊都国、奴国、その他を含む。
邪馬壱国は福岡市、春日市、太宰府市、筑紫野市、朝倉町を含み、神崎町は入れていない。
邪馬壱国の最中心部(=中枢部)は、吉武高木のある福岡市、須玖岡本のある春日市。
邪馬壱国の最中心部が、卑弥呼のいたところです。
吉野ヶ里遺跡のある神崎町は倭国の中心部の端っこに入るが、
甕棺からは銅剣一本なので、倭国の最中心ではない。(邪馬壱国に含まれないことになる。)
後に、神崎町は邪馬壱国に含まれるか、どうかは不明と発言している。安本氏は、私は卑弥呼の宮殿のあった場所は朝倉郡と繰り返し述べている、と発言。
大和:お二人は邪馬台国の所在を北九州とする点では、そう変わらないと思っています。
極端に強い言葉で言い合わなくてもいい、きりがないから、次の問題にいきましょう。安本:古田さんは「倭国は『甕棺の世界』だ」と甕棺を非常に強調しておられます。
私は卑弥呼の時代は甕棺の時代ではなかったと思います。
高島忠平氏は「吉野ヶ里の墳丘墓は紀元前一世紀前半〜紀元後一世紀初頭と言えます。
一方、卑弥呼の亡くなったのは三世紀半ば、二四八年頃と推定されますので、
時代的にもまったく合いません。」と言われています。古田:中国の歴史書は、中国から鏡、絹などの文物が(倭に)大量にやってきたと記録しています。
記録は『倭人伝』ですから、当然ながら三世紀です。
ところが、考古学者の編年によると弥生中期後半前後(一世紀前後)に集中している。
こんな食い違いがあっていいのだろうか、疑問を持ったわけです。
梅原末治氏の論文「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」で解決しました。
「須玖遺跡の実年代はキホウ鏡の示す2世紀後半を遡り得ず、寧ろ3世紀前半に上限を置く。」
キホウ鏡を持った須玖岡本も甕棺ですから、三世紀は甕棺の時代であるということです。安本:原田大六氏が梅原論文を批判しています。
(キホウ鏡は)須玖岡本の王墓出土品というのは疑わしい、
「骨董屋が介入して他の遺跡の出土品をあたかも須玖出土とみせかけ売り込んだらしい。」
梅原さんの意見は全体の編年と矛盾があるので、ほかの考古学者も認めないわけです。
キホウ鏡は、楽浪古墳からも出土しているし、後漢の元興元年(105)や永嘉元年(145)の
紀年鏡も出土している。キホウ鏡は105年、145年ごろの可能性もあるわけです。
だから邪馬台国の時代は甕棺の時代だということにはなりません。古田:時間がないので一言。原田批判は成立しない。梅原論文は今も生きていると考えます。
大和:古田さんの論理は、一番の焦点にふれずに、その周辺に話をひろげるので、困る。
甕棺墓の年代については、古田さんは三世紀、安本さんは二世紀代ということで、
どっちが成り立つかは、客観的にこれから考古学者が決めればいいんです。このあと、「鏡について」へと討論はつづく。
途中経過は省いて、結論をいう。
安本氏は、特定の型式の鏡がいつ出現するか、を資料を出して、説明する。
いまの考古学界で通説的な編年に年代的に矛盾はないという。
甕棺墓の時代は、前漢鏡が出現し、安本説ではBC100〜AD70で、佐原真説ではBC1C〜AD1C。
新〜後漢鏡の出現期も甕棺墓時代で、安本説はAD70〜180、佐原説は1C〜2Cという。
つぎの箱式石棺墓時代が邪馬台国の時代で、長宜子孫銘内行花文鏡が出現する。
安本説でAD180〜290、佐原説で2C〜3Cという。古田氏は、考古学界の大勢はこうだと言っても、一世紀前後に鏡や絹が圧倒的に出てくる。
これはおかしいというのが、素人の感覚として持った素朴な疑問です、という。大和:キホウ鏡の問題等になると、安本さんは資料をいろいろ出す、
古田さんは最終的に私の意見は自分独自の見解だという。
それぞれの立場が違うので、最初は今日どうなることかと心配していましたが、
いろいろな接点も出てきています。
言い足りないことがあったら、結びの意味で少し話して頂いて終わりにします。これで、それぞれがまとめをして討論が終るはずだった。
ところが、相手に対する言い方がもとで、感情的な言い合いになる。
大和:せっかく最後の結びになってから……。
予定の時間を超えてテープもなくなりそうなので、これで打ち切ります。
長時間ありがとうございました。かくして、なんとも後味の悪い形で、『東アジアの古代文化』誌上における討論は終った。
今回の誌上討論は、30ページにわたる大討論である。それに、討論後の二人の補記もある。
「館長だより」に掲載したこの文は、私が勝手にまとめたもので、取捨選択が激しい。
どこまで、真意を伝えられたか、自信がない。
完全を望まれる方は、全文を読まれるようお勧めをする。
これで、激闘! 安本美典VS古田武彦は終る。
(完)
図15:「邪馬台(壱)国をめぐって (討論)安本美典・古田武彦、司会:大和岩雄」の1・2頁目より作成。
『東アジアの古代文化 66号』(1991.1・大和書房)に所収。
安本美典氏(右)と古田武彦氏(左)の写真はネットより借用。
二人とも、最後の対談から幾年か後に別々に撮られた写真である。
安本写真:ネット「邪馬台国の会HP」より。
古田写真:ネット「古田武彦の九州王朝説2」より。図16:写りはよくないが、参考に1988年4月の福岡でのシンポジウムのときの両氏の写真を紹介する。
(『歴史読本 490』(1988.12・新人物往来社)より。)
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