館長だより 第30号
館長だより 第30号

館長の見聞録(13)

2013/04/21

   ☆ 奈良・大阪の遺跡・博物館 見学記 (その9)

  (9) 応神天皇陵古墳

 雨は相変わらず降り続けている。台風はどうなっているのだろう。

 最後の訪問地は、応神天皇陵古墳である。

 この古墳は、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)とも、恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)とも呼ばれている。

 全長420m、後円部の径267m・高36m、前方部の最大幅330m・高さ35m。

 全長は、仁徳天皇陵古墳に次ぐ大きさである。

 体積では143万3960立方bと仁徳天皇陵古墳を上回り、日本一である。

 バスは墳丘・前方部の北西角近くに停まり、みんなで傘を差しながら鳥居のある拝所へむかう。

 前方部正面に着くと、目の前は木が鬱蒼と茂る森がせまる。

 古墳か、山か、鳥居がなければ、全然わからない。

 これだけ巨大な古墳を造っても、その大きさがわからなければ意味がないのではないだろうか。不可解。

 この件は、後日ガウランドが明治時代に撮った仁徳天皇陵古墳の写真を見てわかった。

 古墳の大きさがわからないというのは、誤解であった。

 古墳が築造された当時は、今のようにすぐ側まで家があることはなく、かなりはなれた場所からでも遮るものはなく、古墳の全貌をみることができたのである。

 墳丘に葺石が施され、埴輪が並べられた姿は偉大で、見る人を圧倒したと思われる。

 あとは、なぜ、厖大な財力を費やしてまでこれほど巨大な古墳を築造したのか、ということである。

 国家を統一し、天皇の権力が偉大になったことのモニュメントであることはわかる。

 そのほかに、なにか理由がありそうな気もする。

 巨大古墳築造の理由は、帰りのバスのなかで安本先生の解説があり、わかった。

 当時、国家体制が整い全国から租税として米が都に集まるようになってきた。

 労働力として人も集まるようになる。

 米は他の食物に比べ保存がきくといっても、長期はやはりむずかしい。

 それに米は毎年毎年、集まる。保管場所も必要になる。

 集まった人には仕事をあたえ、食べさせていかなければならない。

 その両方を一挙に解決する方法として、公共事業である古墳造営が考えられたという。

 権力で集めた米を使って、権力の誇示をする。

 なるほど、一理ある。

 エジプトのピラミッド建造は、ナイル川氾濫時の農民に仕事を与える公共事業であるという考えがある。

 映画のように奴隷を鞭でこきつかって造ったわけではないらしい。

 日本の巨大古墳にも同じような解釈ができるようである。


 別に、もうひとつわからないことがある。

 応神天皇陵古墳の周辺には、いくつかの陪塚がある。

 そのうちの一つ、二ツ塚古墳(図3の赤→)をさけて、応神天皇陵古墳の周濠・堤が造られていることである。

 二ツ塚古墳は全長100mほどの前方後円墳で、数ある陪塚の一つ……。

 いや、この古墳は先に出来ていたのだから陪塚とは言えないかもしれない。

 じゃまな古墳を壊して、新たな古墳を造っている例は、珍しくない。

 飛鳥の石舞台古墳の周りには潰された古墳がいくつかあるという。

 平城京造営のときに、前方部を壊された古墳もある。

 応神天皇陵古墳の築造計画に、無理やり変更を加えたようなこの古墳はいったいなんであろう。

 単なる在地の豪族の墓ではなさそうである。

 応神天皇陵古墳の築造は、航空写真でも古墳の地形図でも、よくわかるほどの避け方である。

 濠も堤も逆くの字に曲がっている。

 だれが、応神天皇陵古墳を築造したかは知らないが、その築造は、現在日本一である仁徳天皇陵古墳がまだ造られていないときである。

 ということは、応神天皇陵古墳は造られたとき、全長も体積もまさに日本一巨大な古墳なのである。

 それだけ絶大な権力者が、なぜ、二ツ塚古墳を破壊せず、応神天皇陵古墳の方が遠慮をしたのであろうか。

 二ツ塚古墳に埋葬されている人物は、応神天皇、仁徳天皇にとって冒すべからざる人物なのであろうか。

 新しい謎がうまれた。

 陪塚といえば、応神天皇陵古墳の外堤に接して古市丸山古墳(円墳・径45m)がある。

 ここから伝出土といわれている金銅製龍文透彫鞍金具は国宝に指定されるほど見事である。

 ほかにも、盾塚からは盾10枚・銅鏡・衝角付冑・碧玉製釧など、
 珠金塚からは金製丸玉・銅鏡・鋲留式短甲・鉄製刀剣など、
 鞍塚からは武具・馬具。銅鏡などが出土している。

 応神天皇陵古墳の陪塚の出土品は質、量ともに素晴らしい。

 主体の巨大古墳ばかりに目がいきがちであるが、周辺の陪塚にも注目すべきものが多い。

 もっと、時間をかけて一つ一つ見学したいものである。

 雨は止むことを知らず、残念ながら早々にバスへ戻る。

 迫る台風に追われるように、大阪伊丹空港へむかう。


 応神天皇陵古墳の見学で、今回の旅行の目的はすべてが達せられた。

 今回の旅行を振り返ってみると、思ってもいなかったことに気がついた。

 まず、いろいろな時期の古墳が見られたことである。

 初期の前方後円墳の纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、それに続く箸墓古墳。

 前期の黒塚古墳も見た。

 中期の巨大古墳の代表である応神天皇陵古墳、仁徳天皇陵古墳の大きさを体感した。

 後期は、最後の大前方後円墳の見瀬丸山古墳を車窓から眺めた。

 古墳時代の著名な古墳を、時代を網羅して見たことになる。すばらしい。

 遺跡では、弥生時代の前期から後期まで続く唐古鍵遺跡を現地とミュージアムで見学した。

 池上曽根遺跡は弥生時代中期の大環濠集落である。

 弥生文化博物館では弥生時代を勉強した。

 纒向遺跡は弥生時代末期から古墳時代初めにつながる大遺跡である。

 集落遺跡でも弥生時代から古墳時代にいたる著名遺跡を見学した。

 桜井市の埋文センターでは弥生・古墳時代はもちろん、次の時代の宮都の出土遺物を見て、解説も受けた。

 わずか二日間の駆け足見学ではあったが、安本先生の解説を聞きながら畿内における通史を堪能できた。


  (10) 大阪・伊丹空港

 無事、伊丹空港に到着し、搭乗手続きをすませる。

 みやげを買ったり、話をしたり、皆で少し遅れ気味の飛行機を待つ。

 突然、欠航を知らせる放送が流れる。

 皆、呆然。

 ここで、旅行社の対応が適切ではやかった。

 今日、帰る人は、新幹線に振り替えて、バスで新大阪駅まで送り、切符を手配する。

 翌日、帰る人は、明日の飛行機の席を確保して、ホテルの部屋を手配する。

 それぞれの事情に合わせて、みな無事に帰れる目途がついた。

 残留組はホテル近くのレストランに行き、思いがけない懇親会で盛り上がった。

 災難も愉しむチャンスに切り替えるとは、たくましく、素晴らしい人たちである。

 なにはともあれ、今回の旅行は、いろいろなことで忘れられない思いで深いものになった。

 みなさん、お疲れ様でした。感謝。


                                          (完)


  写真1:上空から見た応神天皇陵古墳・下が北・共同通信撮影(ブログ「道端の出会い・2011.2.25」より)

  写真2:拝所から前方部中央の森を見る(館長撮影)

  挿図3:誉田御廟山古墳 地形図・赤→が二ツ塚古墳(ブログ「From Left Bank・2011.2.26」より)

  写真4:国宝・金銅透彫鞍金具(ネット「羽曳野市HP・国指定・国宝(金銅透彫鞍金具)」より)

  写真5:翌朝、ホテルの窓から見た伊丹空港(館長撮影)


 (付 記)
 応神天皇陵古墳の解説は以下のサイトに詳しい。

   ウィキペディア誉田御廟山古墳 をどうぞ。

   HP「邪馬台国大研究」第15代 応神天皇をどうぞ。


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