邪馬台国に興味を持って、いろいろな本を読んでいるうちに、いつのまにか確かな根拠もなく当たり前と思っていることがある。突然、それが思い違いであることに気付かされ、びっくりすることがある。
細かいことを入れるといくつもあるが、そのうち私が驚いた「3大ビックリないもの」を気付いた順に紹介してみる。
まず第1が、「魏志倭人伝」という中国正史の本はない である。このことは皆さん周知のことで今さら驚くには値しないが、はじめて知ったときは正直えっと思った。
邪馬台国の出てくる部分をきちんというと『三国志』のうちの『魏書』巻三十「烏丸・鮮卑・東夷伝」〈倭人条〉となる。
「魏志倭人伝」は略称、通称である。
そこで、通称であることを示すために、いわゆる「魏志倭人伝」とか、『魏志』「倭人伝」とか、書かれていることもある。
いまでも時々丁寧に説明を施している文章もみられる。
森 浩一『倭人伝を読みなおす』(2010・ちくま新書)がそれである。
≪倭人伝という本があるわけではない。
三世紀の中国には魏、呉、蜀の三国が鼎立していて、三国の歴史を書いたのが『三国志』である。
そのなかの魏書の一部が倭人伝である。
『三国志』を省いていうときには『魏志』『呉志』『蜀志』という。
魏の国の歴史を書いた『魏志』には周囲の国々のことも書いてあり、魏より東の国々について書いた箇所が、
「烏丸・鮮卑・東夷伝」で、その一番あとにあるのが倭人条、つまり倭人伝である。≫これだけ詳しく書いてもらえば、もう思い違いはしない。
ただ、森氏は『三国志』を省いていうときには『魏志』というが、その理由は書かれていない。
中華書局の『三国志』は『魏書』と記している。
他の多くの本も『魏書』と書いている。
『魏書』が元々の表題ということである。
それがなぜ、倭人伝に付くときに『魏書』が『魏志』になるのだろう。
あまり、気にはしていなかったが、それを説明している本に出会ったことはない。
それが最近やっとわかった。
渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(2012・中公新書)に出てくる。
≪陳寿は、魏書三十巻・蜀書十五巻・呉書二十巻という三部構成で『三国志』を著しながらも、魏書にのみ本紀を設けた。(中略)
ただし、劉備と孫権をともに臣下としながらも、『魏書』という形式を取らず、
蜀書・呉書との三部から成る『三国志』としたところに、蜀漢に仕えていた陳寿の苦心と工夫がある。
蜀漢の歴史を魏書に埋没させなかったのである。
このため魏書・蜀書・呉書は、それぞれ完結性を持つことになり、独立して刊行される場合もあった。
日本の静嘉堂文庫は、南宋の初期に刊行された『呉書』を所蔵するが、
その巻頭には呉書だけの目録が附されており、単行で出版されたことが分かる。
そうした場合、魏書は「魏志」と呼ばれた。
北魏の正史である『魏書』と分けるためである。
「魏志倭人伝」という呼称に含まれる「魏志」は、こうした事情を背景とする。≫要するに、「魏書」という名前は他の本にもあるので、混同をさけるために『三国志』の「魏書」には、
”『三国志』の”という断り書きが付かない場合、「魏志」が使われるということである。目から鱗、納得である。
そういえば、陳寿が参考にしたかもしれない王沈の著したのも『魏書』である。
この本の存在も混同を避ける理由のひとつかもしれない。
以前、私は神保町の古本屋で『魏書』と書かれた影印本が安く出ていたので、ろくに中を確かめずに買ったことがある。
後で確かめたら、まさに北魏の『魏書』であった。
もっとはやく、このことを知っていればこんなヘマをしなかったものを……、残念である。
渡邉氏の説明で、森氏のいう≪『三国志』を省いていうときには≫の意味もわかった。
些細なことだが、わかって、すっきりした。
第2が、「魏志倭人伝」には邪馬台国はない である。詳しくいうと、現存するいわゆる「魏志倭人伝」の版本に邪馬台国と書かれているものはひとつもない、ということである。
これには、本当におどろいた。
古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(1971・朝日新聞社)で知った。
≪問題の発端は、「邪馬台国」という国名である。
この「台」は「臺」の代りの字だ。当用漢字には「臺」がない。
それで類似した発音の文字として代用されているのである。
つまり、「邪馬臺国」というわけなのだが、実は『三国志』魏志倭人伝にはこのような国名は存在していない。
女王卑弥呼のいた国が「邪馬臺国」だ、とは一切書いていないのである。
南至邪馬壹国 女王之都 (南、邪馬壹国に至る。女王の都するところ)
倭人伝中、この国名が書いてあるのはこの文面一個所だけである。
そこには「邪馬壹国」と書いてある。≫この本は、内容が強烈で、題名もショッキングなため、かなり売れ、話題にもなった。
『三国志』については、現在、陳寿、その人が書いた自筆の原本は残っていない。
古写本は西域からわずかな残巻が見つかっただけで、そこには「魏志倭人伝」は含まれていない。
現存する『三国志』では、12世紀に刊行された「紹興本」、「紹熙本」とよばれるものが古い。
他に「乾隆殿板本」、「汲古閣本」、「武英殿版本」などがある。
古田氏はいう。それら版本のどれひとつにも「邪馬臺国」とは書かれてない。
これは衝撃的なことである。
和田清・石原道博編訳『魏志倭人伝 他三篇』(1951・岩波文庫)や
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(1965・中央公論社)には、
「壹」は「臺」の誤りとして注記あるだけだという。≪こんなに簡単に、なんの論証もなしに、原文を書き改めていいものだろうか。
わたしは素朴にそれを不審とした。≫古田氏の指摘、疑問はもっともである。私も確固たる理由を知りたい。
そこで、古田氏は『三国志』全体の「壹」と「臺」を調べ、両者の取り違えがあるかないか検査をした。
≪全86例中、倭人伝中問題の「邪馬壹国」(1例)と卑弥呼のあとをついだ女王「壹与」(3例)を除いた82例について検証すると、
一切「臺→壹」の形の誤記は生じていないことが確認されたのである。≫氏のエネルギーには感服する。
古田氏の指摘を受けて、多くの研究者が反応した。
なかでも三木太郎氏と古田氏の論争は注目に値する。
1980年に京都新聞に掲載された三木氏の論文を皮切りに、交互に相手に答える形で足かけ3年の論争が続いた。
私はその全貌を知らないが、手元のスクラップに京都新聞に掲載された数篇の論文がある。
例えば以下のようなものである。
1980.3.07 古田武彦:三たび三木氏に答える 邪馬一国論争の新展開 史料判定、やはり誤り
1980.3.19 三木太郎:三たび古田氏へ (上) 虚構にみちた邪馬壱国説 学問的根拠ない批判本稿は「臺」・「壹」の論争内容を目的にしていないので、ここまでとする。
詳細は三木太郎『倭人伝の用語の研究』(1984・多賀出版)ほかに譲る。
もうひとつ、安本美典氏と古田氏による「臺」についての大論争がある。
こちらは、「壹」と「臺」問題だけでなく、邪馬台国全般に論争が及んでいる。
後日、取りあげてみたい。
ともかく、当たり前に使われている「邪馬台国」の名称にも研究書が著されるほどの問題が含まれていたことがおどろきである。
第3が、卑弥呼は邪馬台国の女王ではない である。この表現では、ちょっと誤解されそうなので、間違いのないように言い換える。
「魏志倭人伝」には卑弥呼が邪馬台国女王であるとは書かれていない、ということである。
これは多くの人が勘違いしていると思う。
卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれていないと知ったのは、西嶋定生『邪馬台国と倭国』(1994・吉川弘文館)による。
≪卑弥呼はどこの国の王であったのかなどというと、おそらく多くの人びとは、いまさら何を言うのだ、
卑弥呼は邪馬台国の女王に決まっているではないか、とお考えになると思います。(中略)
実は私もこれまでなんとなくそう思っていたのですが、今回あらためて『魏志』倭人伝を読み直してみましたら、
何と驚いたことに、『魏志』倭人伝の文章中に邪馬台国の女王であるという明らかな記述、
もしくは卑弥呼を邪馬台国の女王と理解しなければならないという文章は、ともに見当たらないのであります。≫「倭人伝」には、南至邪馬壹国 女王之都 (南、邪馬壹国に至る。女王の都するところ)と書かれている。
邪馬台国は女王が都を置いたところとしか書かれていないのである。
また、倭国乱 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑弥呼 (倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす)とある。
別に、詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑弥呼(詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す」)ともある。
どこにも、邪馬台国の女王卑弥呼とは書かれていない。
西嶋氏の指摘どおりで、これにもおどろいた。
少しわかりにくいところもあるので、例えてみる。
まず、「倭人伝」の記述。
卑弥呼は倭の女王で、邪馬台国を都にした、邪馬台国の王は……?
これを現在の日本に置き換えてみる。
安倍晋三は日本の首相で、東京都に首都がある。東京都の首長は猪瀬直樹である。
倭の王が邪馬台国の王とは限らないのである。
卑弥呼が邪馬台国の女王である可能性は否定しないが、邪馬台国の王でもあるというには、それなりの根拠が必要となる。
「倭人伝」には書いていないということである。
西嶋氏は「邪馬台国の女王」と記されている現代の本の例をあげている。
吉川弘文館『国史大辞典』の「卑弥呼」の項には「二世紀末―三世紀前半の邪馬台国の女王」とある。
三省堂『コンサイス人名辞典』にも卑弥呼は「三世紀の邪馬臺(壹)国の女王」と出ている。
ちなみに、東京堂出版『邪馬台国を知る事典』を見ると、「邪馬台国の女王、卑弥呼についてつたえる文献は少ない。」と書かれている。
少なからずあることがわかる。いずれも一考を要すると思われる。
更にいえば、卑弥呼は倭国王とも書かれていない。
倭王卑弥呼としか書かれていない。
このちがいは何であろうか?
倭と倭国は同じ領域を示すのであろうか、否か。
具体的にいうと、倭国に狗奴国は含まれるか、含まれないかの問題へつながる。
ただし今回は、倭王と倭国王についてはこれ以上は触れない。
邪馬台国については、漠然と思い込んであまり深く確かめていない事柄が少なからずある。「倭人伝」の最初に出てくる≪依山島為国邑≫の国邑もそうである。
以前は、クニとムラと訳されていることが多かった。
そのときは、ああそうかと思った。
最近では、国邑は熟語として扱われ、王都、クニのミヤコ、中心的邑、諸侯の封地、小都市、などと訳されている。
これなども、しっかりと共通認識をもって扱わなければいけない問題と思う。
そのためか、最近「倭人伝」の内容を再検討する書籍が目に付く。とてもいいことだと思う。
今までの知識が、ある日突然、誤見となる。
邪馬台国研究は日々進歩している。だから、邪馬台国からは目が離せない。
写真1:陳寿『三国志』(1959・中華書局出版)の表紙と背表紙写真2:陳寿『三国志』(1959・中華書局出版)の背表紙の一部拡大
写真3:渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(2012・中央公論新社)の帯付き表紙
写真4:古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(1971・朝日新聞社)の表紙
写真5:西嶋定生『邪馬台国と倭国』(1994・吉川弘文館)の表紙
(追 記) 2013.4.28 記『三国志』の『魏書』が単独の場合、『魏志』とよばれる理由はわかったが、なんとなく現代の研究者が混同をさけるために使い始めたのだろうと思っていた。
ところが、『日本書紀』の「神功紀」に「魏志に曰く」と三回出ていることを知った。
『三国志』を読んでいる『日本書紀』の撰者はもう使い分けていたとはおどろきである。
また、『三国志』にある裴松之の注に「魏書に曰く」と数多く引用されていることも知った。
こちらは王沈の『魏書』を示している。
裴松之が注を施したとき、北魏の歴史を著した『魏書』はまだ成立していない。
やはり、なかなか難しい。
このほかに、魏澹(隋代)の『魏書』(北魏)、張大素(唐代)の『魏書』、「安時(唐代)の『元魏書』などもあるという。
注意して、読み分け、書き分けをしなければならない。
参考のため、関連書籍の成立年を書く。
・王沈の『魏書』は成立年代が未確定。王沈の没年が266年なので、266年以前の成立。
・陳寿『三国志』は280年以降成立といわれている。
・裴松之の『三国志』注は429年成立。
・魏收の『魏書』(北魏)は「本紀」「列伝」が554年、「志」が559年に成立。
・舎人親王『日本書紀』は720年成立。
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