千葉支部 第9号
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活動報告(5)

2016/06/19

   ☆ 第5回 勉強会 開催!!

 6月5日(日)に第5回 勉強会が開催された。

 今回の会場は、参加の方からのご要望で、公民館のイス席の会議室を借りた。

 心配していた天気も、夜来の雨が昼前には上がり、勉強会の準備は整った。

 参加者は総勢で12名、感謝申し上げる。

 講師は、近年あちこちでご活躍の若手のホープ、伊藤雅文氏にお願いをした。

 演題は、「『魏志倭人伝』の新解釈と後世改ざん説」。


 なぜ、邪馬台国の所在地がわからないのか?

 それは、『三国志』にある言葉の解釈がまちがっているからと、伊藤氏は断じる。

 まず、第一に「周旋」を取り上げる。

 氏は『三国志』に出てくるすべての「周旋」を調べる。23例ある。

 それらを今鷹真・他共訳のちくま学芸文庫『正史三国志1〜8』(1992〜1993)の訳文にあたる。

 「周旋」を一周すると和訳している2例を突き止める。

 「魏志倭人伝」と「呉志諸葛恪伝」で、共に「周旋**里」と同じ構文である。

 「呉志」例を詳細にみると、丹楊郡の南部をめぐるという意味であることがわかる。

 決して、一周ではない。

  ≪(「周旋」は)くねくねと進む一本道の曲がりくねった線なのである。
   だから、「倭の地は一周五千余里である」という従来の解釈は明らかに間違いであり、
   実はこの「周旋五千余里」は、倭地の参問に要した道のりの距離のことだったのである。≫

 氏の論法は明快であり、わかり易く、説得力がある。

 ほかに、「統属女王国」、「道里とは」、「会稽東治」などを綿密に調べ上げる。

 そして、陳寿が元々書いたであろう不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国までの里数を導き出す。

 伊藤氏のたどり着いた結論は、邪馬台国は熊本平野である。

 その中心集落は方保田東原遺跡と考えられている。

 伊藤氏はひとつひとつ丁寧に、徹底的に検証をして、自身の根拠を積み上げていく。

 まるで、推理小説にでてくる明探偵、ベテラン刑事のようである。

 これで、逃亡者・邪馬台国は追いつめられたのか。

 考古学的発見がその答えを教えてくれるかもしれない。


 次は私の「魏志倭人伝」とは?もう一度読み直すの第4回目である。

 前回、渡邉義浩氏のいう漢・魏時代の中国人の方一万里の世界観を紹介した。

 続いて、それに基づいて永田憲行氏が作成した東夷世界を描いた模式図を紹介。

 そして、魏の国都の洛陽と邪馬台国への出発点の帯方郡の2点に模式図のそれぞれを合せる。

 すると、会稽東冶の東に倭の領域がくる。

 陳寿の記述がそのまま地図上に描かれていることになる。

 ただし、倭は海の上となる。

 そこで、今度は帯方郡、狗邪韓国、一支国などの確実と思われる行程上の定点に模式図を合わせる。

 その結果、邪馬台国が何処に来るかを調べる。

 ここで、問題が生じた。

 いろいろな縮尺の模式図を作り、実際の地図に合せて皆さんに見てもらおうと思っていたが、その模式図がない。

 どうも家に忘れてきたらしい。なんたる失態。申し訳ない。

 結果は、資料に書いておいたので説明は行なったが、まるで迫力がない。

 不完全燃焼のまま、時間が来た。

 どんなことをしたかったのか、雰囲気だけでも伝えたいので、地図に模式図を重ねた一枚を掲載する。

 次回に再度、挑戦をしたい。


 みなさん、誠に申し訳ない。そして、お疲れ様でした。

 これに懲りずに、次回の参加もぜひお願い致します。


 写真:当日の講演会の様子。左端が講師の伊藤雅文さん。(館長撮影)

 挿図:帯方郡(ソウル)と狗邪韓国の2点に模式図を合わせた図。
     邪馬台国は海の中となるが、狗邪韓国を中心に弧を描くと熊本が同距離と分る。



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