千葉支部 第13号
千葉支部 第13号

活動報告(7)

2017/03/04

   ☆ 第7回 講演会・勉強会 開催!!

 2月12日(日)に第7回 講演会・勉強会が開催された。

 今回の講師は、全国邪馬台国連絡協議会会員の牧村健志氏である。

 テーマは、「春秋2倍暦の存在証明とそれに基づく古代史の解明」である。


 牧村氏は、古代の天皇の年令(宝算)が異常に長いことを不思議に思い、調べ始める。

 同様な疑問を持つ研究者は多く、明治時代から「春秋二倍暦」仮説が唱えられていることを知る。

 ブラウゼン、古田武彦、安本美典らである。

 しかし、その仮説を検証している研究者がほとんどいないことも知る。

 そこで、牧村氏は中国史書の記述、金石文の記録、考古学の成果などと対比しながら、独自の新紀年表の作成に取り掛かる。

 まず、古事記と日本書紀の対比である。

 その結果、古事記は日本書紀作成のもととなった一書(あるふみ)のひとつであるとわかる。

 日本書紀が大和朝廷公式の歴史書であることにたどり着く。

 日本書紀は、纏向遺跡や稲荷山鉄剣など考古学の成果と照らし合わせると、記述が信用できる。

 それをふまえて、本題の「春秋二倍暦」仮説を、履中天皇の年令問題、八田皇女の年令推移問題、よりその存在を立証する。

 二倍暦から標準暦への変換を、古事記124歳、日本書紀62歳とする雄略天皇で見出す。

 古事記ではこれ以降、天皇の記述(旧辞)が激減していく。

 語り部(古事記)の時代がおわり、史官(日本書紀)の時代となる。

 雄略以前の二倍暦による記述を標準暦に替え、新紀年表作成に着手する。

 しかし、機械的に1/2に変換しただけでは、記事の長さと在位年数が合わないなどの不都合が生じる。

 その都度、調整を加えると恣意的になりがちである。

 全てに適応できる客観的基準はないか。

 ここで牧村氏が真骨頂を発揮する。

 まず、日本書紀の帝紀部分と旧辞部分に注目する。

 天皇の即位、退位など帝紀は2倍暦に基づいて書かれている。

 しかし、旧辞には記事がまとまって書かれている部分と、長期間記述のない部分があり、2倍暦に基づいていないことに気づく。

 更に、韓半島系の資料を加味して、これぞという新紀年表を作成する。

 纏向遺跡の存続年数、神武東征の時代、仁徳天皇大古墳の謎。

 これらが、新紀年表でみると考古学による調査成果と奇跡の一致を示している。

 牧村氏の講演は、声を張り上げるわけでもなし、自説を押し付けるわけでもなく、やさしく、丁寧に語りかける。

 そして最後に自信を込めて、今後の古代史議論には、この新紀年表を共通認識としていただきたいと講演を終えた。

 私にとっては、至福の一時間半をすごせて、とても愉しかった。


 休憩をはさんで、つぎは私の「魏の朝鮮支配と卑弥呼の朝貢―遣使は景初二年か、三年か」である。

 卑弥呼の遣使が景初二年か、三年かという問題は、史書に二種の記載があることにはじまる。

 江戸時代に松下見林が、二年は三年の書き誤りという。

 明治時代に内藤湖南も三年と考察し、異を唱えることの多い論敵の橋本増吉も三年とする。

 これ以後、「二年は三年の誤り」が定説のようになる。

 1970年前後に、この定説に古田武彦、坂元義種、阿部秀雄らが一斉に反論を述べる。

 古田は、三年では納得できない五項目を挙げ、二年ならば疑問がなくなると論述する。

 それに対し、白崎昭一郎が古田五項目に別の解釈を加え、納得できると主張する。

 二・三年論争はいまだに続き、決着をみない。

 先人たちの多くの論考を参考にして、たどり着いた私の結論はこうである。

 まず第一に、倭人伝に「求詣天子朝献」とあるので、卑弥呼の遣使は洛陽をはじめから目指していたものと考える。

 そのために、卑弥呼は遼東情勢に多大な関心を持って情報集めをしたと思われる。

 しかし、戦闘状態になっている程度の情報はあったと思われるが、戦闘の成否までの迅速で詳細な情報は無理である。

 帯方郡奪取時の太守は劉マであるが、倭の遣使が会った太守は劉夏である。

 いかなる理由で交替になったかは不明であるが、倭使の到着を景初2年6月とすると、あまりにも早い交替である。

 劉夏着任が2年ならば、彼の立場は公孫淵討伐包囲網の一翼を担う重責である。

 景初2年9月に公孫淵が討ち取られるまでは、予断を許さぬ戦闘状態である。

 町田惠保によれば、倭から使いの出せる渡海期間は、4月から8月までの4〜5ヶ月ほどという。

 それに天候を考慮すると渡海可能は約40日間である。

 魏の明帝が淵の死を確認したのが2年10月ころであり、たとえその時点で即その情報を卑弥呼が知りえたとしても遣使は無理である。

 倭使の帯方郡到着が6月ならば4月には倭を出発しなければならない。

 景初2年4月に、戦闘の成否もわからないうちに、倭にとって国の将来を決める重大な決断を下せるであろうか。

 景初3年正月に明帝が崩御している。その年の公事は停止である。

 前年12月に倭使が洛陽に到着していたら、彼らはどう行動したであろうか。

 ある人はいう。手ぶらで倭へ戻った。

 他のひとはいう。魏使が下賜品を届けるときに同行して帰る。それまでは洛陽に滞在する。

 『晋書』宣帝紀に、正始元年の東倭の朝貢記事がある。東倭は倭国のことである。

 景初3年に手ぶらで戻った倭使は、とんぼ返りで、またやって来たのであろうか。

 それとも、一年間も無意味に洛陽に残留したのであろうか。

 遼東の形勢が確定し、明帝の死を知り、この時点でなにをすべきかはっきりとわかる。

 前皇帝への弔問、新皇帝の慶事に向けて、卑弥呼は使節の派遣をすみやかに決めたのではないだろうか。

 卑弥呼の遣使は景初三年である。

 三年であれば、いま挙げた問題点はすべて氷解すると思われる。

 ただひとつ、問題が残る。

 それは、明帝の詔書のである。

 三年ならば、明帝は崩御し、詔書を作ることができない。

 だが、倭人伝には「景初二年…その年の十二月、…詔書が下された」とあるだけで、皇帝の名はない。

 三年であれば、詔書は新帝の曹芳のものとなる。

 もちろん八歳の曹芳では詔書は作成できない。後事を託された曹爽か、司馬懿によるものである。

 それに、明帝紀には倭の遣使の記事がない。大盤振る舞いしたほどの重大事の記事がない。

 もっとも、斉王(曹芳)紀にも倭の遣使の記事はない。

 この問題がすっきり解決すれば、二・三年の問題は決着すると、私は思っている。


 以下は、当日の二年・三年問題の要約ではなく、私の失敗談、詫び状である。

 牧村さんに講演をお願いしたときには、自分が話す内容が決まっていなかった。

 11月に会場が確保できた時点で、やっと卑弥呼の遣使が二年か、三年にしようと決めた次第だった。

 定説では、三年。それに古田武彦氏が反論して二年を主張している。これは知っていた。

 二年説、三年説をそれぞれ、数人取り上げて、それぞれの長所、短所を検討しよう。

 そうすれば、なんらかの結論が出せると簡単に考えていた。なんたる傲慢か。

 先人の論考を探し始めたら、こんなにもあるのかと驚いた。

 論文を探すだけで時間がどんどん過ぎていく。このままでは間に合わない。

 見つける側から、読んで、要約して、パソコンに打ち込んでいく。

 頭の中はごちゃごちゃである。

 三年説が13人、二年説が16人、論文を見つけた時点で、論文探しは打ち切った。

 間に合わないからである。

 探せば、まだまだあることは承知しているが、いたしかたない。

 それぞれの説の要約とともに年表作りを並行して行なった。

 公孫淵が斬られた月が本によって違う。えらい学者先生が8月と書いているのでそれに従った。

 講演日間近に、9月と三国志に書かれているのを確認した。

 しかし、原本は干支で書かれているため、訳の仕方でどちらも主張できることを知る。

 私は9月が正しいと思うので、年表は9月にした。ただし、本文中は8月のままで書いた。統一がない。

 作った資料も重複が多く、校正ができていないままのものを皆さんに配った。申し訳ない。

 資料を読み込んで、論争の骨子をしっかりと決めて、資料の取捨選択をしてまとめなければならない。

 資料をただ多く並べればいいというものではない。

 講演も資料を読み上げるだけで、時間が終わり、聞いていただいた方からの質問にもなにも答えていない。


 そんなこんなで、当日列席の方々にはまことに申し訳ない。

 いまは、もう締め切りがないので、論文探しを継続して、資料を読み込んでまとめたいと思っている。

 その結果、結論が変わってくるかもしれない。その節は平にご容赦の程、お願い申しあげる。


 
 上図:日本書紀と古事記の情報量比較図。(牧野健志『よみがえる神武天皇』2016・PHP研究所より)

 下図:左・詔興本『三国志』の影印本。右・宋版『梁書』の影印本。


トップへ

戻 る 千葉支部表紙 HP表紙
inserted by FC2 system