千葉支部 第11号
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活動報告(6)

2016/09/11

   ☆ 第6回 講演会・勉強会 開催!!

 9月4日(日)に第6回 講演会・勉強会が開催された。

 今回の講師は、全国邪馬台国連絡協議会理事の丸地三郎氏である。

 丸地氏は、ご自身の地元で隔月、講演活動を精力的に行なっている。

 本格的に日本古代に関する研究を始められたのが近年からという。

 ということは、非常に密度の濃いエネルギッシュな時間を過されているように思われる。

 今回のテーマは、「魏の使者は、帆船で博多湾に来た」である。

 丸地氏はいう。

 松浦郡(唐津)上陸説に重大な問題点がある。

 壱岐から千里の海を渡って来た魏使は松浦郡(唐津)に上陸したと多くの研究者がいう。

 すると、つぎの東南五百里にある伊都国から港を管理することは無理になる。

 上陸地、マツラに問題があるのではだろうか。

 氏は古事記、日本書紀にある神功皇后のマツラ記事を調べる。

 日本書紀には火前国の松浦県とあるが、古事記には筑紫の末羅県とある。

 神功皇后の行動をみると、肥前・松浦へ廻るよりも、筑紫・末羅の方が無理がないとわかる。

 倭人伝のいう末盧国は、筑紫・末羅ではないか。

 そう考えると、後の行程に無理がなくなる。

 魏使は、壱岐から博多へ来たのではないか。

 ならば、大型船は博多に入港できるか。

 氏は邪馬台国時代の博多湾の様子を調べ、復元する。

 では、その時の船は、どんな船か。

 史料、遺跡から大型帆船を導き出す。

 推論のひとつひとつに、確実な根拠を提示する。

 その論考は、見事と言う他はない。

 痛快な時間を過すことができた。

 予定時間を過ぎても、時間が足らないほどである。

 参加者からの質問にも明解な解答があった。


 次は私の「魏志倭人伝」とは?もう一度読み直すの第5回目である。

 今回は、魏志倭人伝からちょっと離れ、古代中国人の宇宙観、世界観から話を始める。

 周代に天下の領域はの方三千里の大きさと考えられ、後漢末に夷狄を含む方万里の帝国領域へと拡大する。

 陳寿が三国志を著した晋代に、方万里の外側に荒域が想定されている。

 曹真の功績によって、その荒域にある西の大国・大月氏国からの朝貢がある。

 洛陽から距離16,370里の地に、大月氏国はある。

 魏の朝廷内で曹一族と司馬一族の権力争いがある。

 司馬懿の功績で東の荒域にある倭の女王・卑弥呼による朝貢がある。

 司馬懿はクーデターを起こし、権力を掌握する。

 後に、司馬一族が晋朝を樹立し、司馬懿は宣帝と呼ばれる。

 晋は魏より多くの記録を受け継いだはずであるが、晋に保存される記録には、宣帝の功績は、曹真の功績を上回るものと記されていなければならない。

 結果、洛陽より五千里離れた帯方郡から倭の女王国までは万二千余里となり、洛陽から倭の女王国まで17,000余里となる。

 はじめに万二千余里ありきなのである。

 この水増し記述を陳寿は地図でも行ない朝鮮半島・倭国を拡大している。

 その地図に定点といえる狗邪韓国と壱岐国邑に模式図を重ねると女王国は鹿児島市辺となる。

 模式図の郡より万二千余里は直線距離であり、実際の行程には紆余曲折がある。

 紆余曲折が多いほど位置は壱岐国方向へ近づく。

 その割合を一割とみると、熊本県人吉市辺となる。

 二割とすると、福岡県大牟田市辺となる。筑後平野である。

 これが陳寿の描く邪馬台国の位置となる。

 前回、充分に説明できなかったことが報告できてうれしかった。

 結論の正否は別にして、参加いただいた皆さんには、内容はご理解いただけたと思っている。


 写真:当日の講演会の様子。パワーポイントを使って説明をされている講師の丸地三郎さん。(館長撮影)

 挿図:丸地資料に掲載されている3世紀以降の多数のマストを持つ帆船の図。
     出典はJ.ニーダム『中国の科学と文明』第11巻(1981・思索社)。


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