館長の小論報第22号
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館長の小論報 第22号

2023/04/30

   ☆第22号 「夷守」は邪馬台国北九州説の崩壊になるであろうか

 「邪馬台国新聞」第14号に大平裕顧問の「邪馬台国北九州説の崩壊」が掲載されている。

 大平氏は、北九州説崩壊の理由として、「夷守」、「不弥国」、「女王王国東方の国」、「人口問題」、「水行30日」の5項目を掲げている。

 私は自分が関心のある「夷守」について調べてみる。(《 》は引用文)


 大平氏は、《「夷守」というのは、遠くにあって国を守るという意味ですから、北九州、特に福岡県の甘木、朝倉、夜須あたりが都であれば、
 東京都のすぐ真北に北海道防衛師団の本拠地を何ヶ所も抱えているようなもので、全く不合理な話で理に合わないことになります。》という。

 『魏志倭人伝』には「卑奴母離」と書かれており、「夷守」は奈良時代以後の言葉とみられているので、邪馬台国問題の一つとして「卑奴母離」について調べてみる。

 内藤虎次郎は「卑弥呼考」で、『魏志倭人伝』にある官名すべてを取上げ、《卑奴母離のヒナモリ、即ち夷守たるが如きは、
 弁証を費やすを須ひざれ(=必要ない)》と言い、卑奴母離=夷守としている。ただし説明、理由はない。

 喜田貞吉は「漢籍に見えたる倭人伝記事の解釈」で、《卑奴母離といふは夷守なるべし》と書いているが、《夷守は夷狄に対して守るの義にして、
 蓋し大和朝廷設置の官か。然らば是れ倭人の語にあらず。越後に夷守郡あり、蝦夷に対する守備を置きし所なり。》と「夷守」を九州の守備とは解釈していない。

 山田孝雄は「狗奴国考」で《卑奴母離は対馬、一支、奴、不弥の副官名で、地名に多く夷守として残っているが、制度ではない(要約)》と言っている。

 平野邦雄は「邪馬台国の政治構造」で“夷とは何か”を解説している。

 《『古事記』に、「上つ枝は天を覆へり、中つ枝は東を覆へり、下つ枝は比奈を覆へり」とあり、天は天下、東は東国をさすのだから夷は東国(信濃・遠江以東)と
 畿内の中間領域となる。(要約)》という。古事記の夷(ヒナ)の地は『魏志倭人伝』の副官「卑奴母離」のいる九州北部とは異なると指摘する。

 以上をまとめると、「卑奴母離」と「夷守」はヒナ(辺地)モリ(守る)で一致しているが、「卑奴母離」のヒナは九州で、「夷守」のヒナは畿内より東の地域としている。

 角林文雄は万葉集の用例を挙げ異なる読み方をする。

 《支配者としての「ヒ」は最初、天から「アモリ」したもので、その継承が日嗣である。「母離」はこのような意味における「漏り」であろう(要約)》

 これほど研究者によっていろいろな解釈がある。大和朝廷「夷守」が守る遠くの国について、もっと詳しく考察をしなければならないと思う。

 内藤虎次郎にも、自身の解釈の根拠・考察を書いて欲しかったものである。

 笠井新也は「卑弥呼時代に於ける畿内と九州との文化的並みに政治的関係」に長文で述べている。

 結論は《要するに魏志倭人伝の卑奴母離は即ち夷守であって、大和朝廷が外は大陸に対し、
 内は熊襲隼人などに対して九州の辺地に特に設置したものに相違ない。(要約)》と述べて、理由を三点示している。

  @ 魏志によれば、卑奴母離とは九州北部の要地に置かれていた官職が明らかである。
  A 卑奴母離という名は夷守の義であることは古来の定説である。
  B 日本書紀・和名抄等に夷守という地名・人名があることによって、我が上古に夷守という職制があった推定に難くない。(三点要約)

 笠井の三つ理由で@は対馬や一支の副官なので明らかである。Aは古来の定説では理由にはならない。

 夷(ヒナ)の地の考察が必要。Bは地名や人名があることでは職制があったとは言えない。笠井説に同意の方に、検証を期待する。



 次に、「卑奴母離」が時代的に即「夷守」に繋がるか、「夷守」を調べる。

 「夷守」の言葉がある現存する古代資料を見ると「兄夷守・弟夷守」(日本書紀)、「越後国頸城郡夷守郷」(和名抄)、「筑前国駅馬夷守十五疋」(延喜兵部式)などがある。

 『日本書紀』では景行天皇の条にある。越後・筑前という呼び名は卑弥呼の時代にはない。これは律令制(7世紀)による国名である。

 景行天皇の時代はいつであろうか。景行天皇の陵墓を渋谷向山古墳とすると、古墳の出土遺物から4世紀後半・古墳時代前期という。

 これは、天皇が奈良に都を造り、大和朝廷の時代となる。

 『魏志倭人伝』の「卑奴母離」は、卑弥呼の邪馬台国の時代で、3世紀半ばの記事である。

 両者には100年以上の時代差がある。なにも考えずに、同じものとして繋げていいのであろうか。

 ネットのウィキペディアの「ヒナモリ」を見ると、「霧島岑神社(夷守神社ともいう)」と「美濃国厚見郡の比奈守神社」が共に、
 3〜4世紀頃、守備隊が駐屯した所と考えられるという。

 これらの記事の最後に、日向国、美濃国に残るヒナモリの名前は軍事的長がいたことを意味し、そこまで邪馬台国の勢力が及んでいたことを示唆している、とする考えもあるという。

 しかし日向国以外のヒナモリと「卑奴母離」については、その関連が不明である。

 また日向国のヒナモリは地名・神社名であり、「卑奴母離」は役職名と考えられることに注意が必要、とも書いてある。

 実はヒナモリの文字を「上代特殊仮名遣」で調べると、「卑奴母離」の「も」は乙類のモで、「夷守」の「も」は甲類のモである。

 大森志郎は「上代仮名遣ひから見た邪馬臺国の擬定」で書いている。

 《卑奴母離という表現も日本語のヒナモリにあてたものだから倭人伝の母の字は乙類「も」であるが、マモルといふ意味のモル「守」は甲類「モ」である)》

 田中卓は「邪馬臺国の所在と上代特殊仮名遣」で、述べている。

 《卑奴母離の母離が日本語の「モリ」であるが、この「母」(乙類)であり、記・紀において、「守」の「モ」は「毛」(甲類)である。》

 安本美典顧問は『「倭人語」の解読』に書いている。

 《『古事記』は「守」という語の「も」には、「甲類のモ」である「毛」をつかっている。
 『魏志倭人伝』では、「卑奴母離」と書き「乙類のモ」をあらわす「母」が用いられている。(要約)》

 武光誠の『邪馬台国辞典』にも甲類、乙類の件はあり、ウィキペディアの「ヒナモリ」にもある。大平顧問はなぜこの問題に触れていないのであろうか。

 大平顧問は、「邪馬台」という国名、呼称について4種類あると指摘し、「山門」は「大和」と同じ発音はないので、検討の対象から外れた言説という。

 この基準に合わせると、「卑奴母離」と「夷守」は同じ発音でないので、「夷守」は検討の対象から外れることになる。

 北九州に邪馬台国があり、すぐ北に「卑奴母離」がある可能性は認められる。

 むしろ、対馬・一支の「卑奴母離」に大陸からの数万の侵略軍が急に襲撃してきた場合、遠く離れた奈良の都から素早く援軍を派遣できるであろうか。

 卑弥呼の時代に馬はいないと書かれている。多数の兵を乗せる軍船団も聞いたことがない。速やかな軍隊の移動は無理である。

 だいたい卑弥呼や台与は魏に朝貢をして親善関係を結んでいる。

 上代特殊仮名遣に関わらず他の研究者が、「卑奴母離」の解釈を行ない大和朝廷が設置した軍官とする説への反対説を述べている。

 坂本太郎は「魏志倭人伝雜考」で《『魏志倭人伝』には15種の多様な官名がみえるが、独自性(多様性)を有するのは諸国が独自に任命した官であることの証左である。》
 もしも、奈良の大和朝廷からの官の派遣ならば、すべて共通の名称と思われる、ということである。

 藤間生太は「『魏志倭人伝』の官について」で、《「対馬・壱支・末盧・奴・不弥の北九州沿岸領域の五ヵ国は伊都国の首導の下に連合体をつくり、
 この連合体を支えてゆく機構として、伊都国以外の五ヵ国には一律に卑奴母離がおかれ、それの発生は一世紀の半ばにさかのぼる。》とまとめている。

 原田大六は、『邪馬台国論争』で、「卑奴母離」について詳細な考察を行なっている。

 《(対馬・一支・奴・不弥)四例ともに大官ではなく、すべて副官になっていることを重視すべきである。対馬と一支両国にあっては、
 大官卑狗の職務である指定航路通行の補佐役として、海辺にのぞむ辺地にあって、違反者の有無を監視るものの指揮に当たったのが、ここ二国の卑奴母離である。

 奴国では、陸上の往来のはげしい位置にあって、大官が滞りなく通行を取り締まるように、辺地の防御をしての補佐が卑奴母離。

 不弥国では、船の迂回業務が円滑にいくように補佐し、違反者の監視が卑奴母離。以上のように、卑奴母離は単なる辺地の防衛に当ったのではなく、
 各地それぞれの職務に防御・監視の役割を果たしていたといえるのである。(要約)》

 原田説のようにその土地にあった業務をこなす仕組ならば、遠い奈良からの連絡よりも、都が近いほうが速やかにできるように思える。

 以上の説をみると、邪馬台国北九州説が「夷守」によって崩壊したことはなく、むしろ、北九州のヒナの地に卑奴母離を置き、
 後背の筑後平野に邪馬台国が都として存在した根拠の一つといえる。

 これで「卑奴母離」問題は「甲類、乙類」基準を使わなくても解決ができることになる。

 そこで思うのは、逆に上代特殊仮名遣の甲類、乙類問題はこのままでいいのであろうかということである。

 上代特殊仮名遣とは、飛鳥・奈良時代に、キ・ヒ・ミ・ケなどの20種類ほどの音節が二様に書き分けられていたことを言い、その中に「ト」がある。

 大森志郎は『魏志倭人伝の研究』で、《邪馬臺の臺は乙類で、畿内のヤマトはいずれも乙類であり、九州の山門(ヤマト)はすべて甲類なので、
 倭人伝の邪馬臺は畿内の大和と主張した。(要約)》

 それに対して田中卓は『海に書かれた邪馬台国』のなかで小見出しに《「ト」の仮名遣いによる畿内説はナンセンス》と書いている。

 田中は7項目の理由を述べる。

  @ 音韻は変わりにくいと言うが、地名は発音に変化があっても使用上の困難はないし、発音者の個人差も認められる。
  A 聞き手の外国人がどれだけ発音の甲・乙を正確に聞き分けたかは疑問。
  B 神功皇后=卑弥呼とした『日本書紀』の編者はヤマトを万葉仮名で記す場合、『魏志』の字を採用して、「ト」に乙類文字を当てただけと思う。
  C 「ト」は『古事記』『日本書紀』当時に甲・乙二類の別に乱れがあり、二類の使い分け方が信用し難い。
  D 例えば、『太』(フト)。『古事記』の「賦登麻和訶比売命」は『日本書紀』の「太史真稚彦女日媛」に相当する。
    「賦登」の「ト」は乙類、「太」の「ト」は甲類。この例は固有名詞である。個々の筆者は音のみを写すために異例を生じたと思われる。
  E 『播磨風土記』の「美嚢郡」に「倭は青垣、青垣の山投に坐しし」とあり、そのあとに「ここに針間の国の山門の領に遣わされし山部連少楯…」とある。
    山部連少楯の名は『記紀』にもみえ、ヤマト朝廷から播磨国に派遣された人物である。
    となると『記紀』と同時代の『播磨風土記』に畿内の大和を「山門」と書いていたことになる。
  F 『住吉大社神代記』(731年の日付で撰者名を記載)に「山門川」の名がある。これはいまの奈良県から大阪湾へ流れる「大和川」のことである。
    (以上@〜Fは要約、詳細は原本をご覧ください。)

 田中は言う。《このようにみてくると、特殊仮名遣の“ト”によって、邪馬台国の所在を、畿内の大和とみるか、
 九州の山門とみるかということは、決め手にならないことが明らかとなる。》

 つまり、「上代特殊仮名遣」の甲類・乙類別けは、邪馬台国畿内説の根拠にならないという事である。

 以上、私のこの文章は、多くの方の考察を引用しただけの文章ではあるが、先人の考えを勉強すると今まで気が付かなかった解釈が得られるようになる。


                        (2022.10.30[邪馬台国新聞]第15号に掲載のために事前執筆の元原稿)


  挿図 :『三國志』影印南宋紹熙刊本の魏志倭人伝にある「卑奴母離」(ネット「魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く Yoshi」より)


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