館長の小論報第21号
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館長の小論報 第21号

2022/01/30

   ☆第21号 「魏志倭人伝」における「棺あって槨なし」について(つづき)

 湖南省博物館・中国科学院考古学研究所の『長沙馬王堆一號漢墓』(平凡社・1976)に「槨」の記述がある。

  ≪古文献中の“槨”には二つの意味があり、その一つは外棺をさし、もう一つは槨室をさす。(略)
  槨室と外棺の主要な区別は、次のような点にある。槨室は厚い板を用いて墓穴の中に組み立てたもので、
  外棺はあらかじめ蓋のある1個または数個の木の箱を作り、内棺の外側に重ねて墓穴に埋め込んだものである。≫

 次に古文献中の「槨」の用例をあげ、≪棺はそっくりそのままほかへ移せるが、
  槨室は解体して取り除き、あらためて積み上げなければならない≫と説明している。

 前号で「槨」は棺を入れる外箱に限定していた解釈は、はやとちりみたいである。

     図8 馬王堆1号漢墓の木製の槨室     図9 外側の外棺(赤→)   図10 二〜四重目棺  図11 二・三重目棺

 馬王堆1号漢墓からは、槨室の中央にある棺室のなかに、すき間なく重なり合う四重の木棺が出土している。

  《いちばん外側は黒漆塗りで文様のない棺、二重めは黒地に彩絵を描いた棺、三重めは朱色の地に彩絵を描いた棺、四重めは錦のように飾り立てた内棺である。》


 図9の一番外側の外棺は、二つ意味のある槨の一方を意味している。

 前号で紹介した宮城谷昌光の『孟夏の太陽』に出てくる《棺から椁(外箱)をはずした》というこの槨は外棺の意味となる。

 手近にある報告書で、もう1例、漢墓をみてみる。

 東方考古学会の『陽高古城堡』(六興出版・1990)にある第17号墳(魯相墓)である。

  ≪封土は高さ約五.五メートル、基部は三六メートルに達し、古城堡古墳群中最大のものである。(略)
  墓壙の中には木槨をつくり、(略)(その)天井および床は幅四五センチ、厚さ一五センチの材を南北に並べ、
  側壁は一五センチの角材を縦に並べる。(略)木槨内には、西寄り北壁に接して黒漆の棺が二つ東西の方向に並置され、
  その東と南との広い床一面には多数の副葬品が並べられてあった。≫

 槨については、馬王堆一号漢墓と同様の記述がある。

 槨室は角材を用いて天井、床および内壁を作り、その中に棺を納める。これを木槨と呼んでいる。

 以前、飛鳥地方の古墳についての講演会で、講師の方が石室の床面は土のままで、石槨は床石の上に壁の板石がのっていると説明していた。

 なるほど、石舞台古墳の棺設置場所の床面は土のままであり、他は石でかこまれていて、石室を呼ばれている。

 牽牛子塚古墳は凝灰岩を刳り抜き製造した貫き式横口式石槨と呼ばれている。

 床面、壁面、天井、すべてが石で、槨内の中央には間仕切り石があり、二つの埋葬施設がある。

 粘土槨について小林行雄氏が『図解 考古学辞典』(東京創元社・1959)に書いている。

  ≪古墳の封土中に石室をもうけず、直接に棺を埋めるばあいに、木棺の周囲を厚く粘土でつつむことがある。
  棺の外部構造という意味で、これを粘土槨という。(略)ただし木棺の身をつつむ粘土と、
  蓋をおおう粘土とは時間をおいて施工されるから、かならずしも一貫した外形をしめさぬばあいがある。(略)≫

 床面と天井、壁が同一の材で構成されているので、槨と呼ばれている。

 この点から、いま一度『ホケノ山古墳 調査概報』(学生社・2001)をみる。

  ≪(ホケノ山古墳の)「石囲い木槨」はわが国で初めて確認された構造の埋葬施設で、
  木材で構築した木槨部分と、その周囲に石を積み上げて構築した石槨部分からなる二重構造をもつ。(略)
  (石槨の)壁面は川原石を巧みに積み上げ、ほぼ垂直である。(略)
  蓋は木材で架構し、その上に少なくとも石槨内部を埋め尽くすだけの量の石が積まれていたと考えられる。(略)
  (木槨の)側板は厚さ10cm弱の板材を横長に積み、内側の添え柱によって支える構造である。(略)
  木槨には木材の床はない。墓壙底には若干の置き土を施したのち、大量のバラスを敷いている。
  このバラス面がそのまま棺床となるのではなく、さらに人頭大からそれいじょうの大きさの川原石を
  周囲に巻くように設置して中央が舟底状にくぼむようにしつらえている。粘土はいっさい使用されていない。(略)≫

図14 ホケノ山古墳の石囲い木槨の全景     図15 木槨復元模型      

 なんとも複雑な構造である。床面の用材に注目すれば、石槨であるが、板材の使用状態が木槨に似ている。

 ただし、床板はない。きっと報告者は命名に苦慮したことだろう。

 ホケノ山古墳は土壙の壁面に川原石を積み上げ、床面に敷き詰め、中央部に埋葬施設を木材で構築している。

 棺を埋葬する所に注目すると、「木槨」であると言えそうである。

 陳寿がこれを見たら、なんというであろうか。

 「槨室」を指す「槨」の使用例は『漢書』「外戚伝」にあると『長沙馬王堆一號漢墓』に書かれている。

  ≪“太后[哀帝の母にあたる丁太后]が紹を下して‘もとの棺により、槨を致し塚を作らせよ’といった”とあり、
  顔師古の注に“致すとは、重ねることをいうのだ”とある≫

 漢代に「槨」という文字は、外箱と槨室の両方の意味で使われていたと思われる。

 どうも取り留めのない話になってしまったが、最後に、陳寿はどういう意味で倭人伝にある墓制記事を書いたのだろうか。

 「槨」がないとはどういうことであろうか、考えてみたい。

 中国の王侯貴族は、墓を造るときは竪穴を掘り、棺を槨に容れ、ときには棺も槨も二重、三重にして埋葬している。

 倭人は王や大夫を名乗っているのに、墳墓では棺を槨に容れることをせず、そのまま竪穴に棺を納めて埋葬する。

 槨の存在は身分をあらわすのに、倭国の墓制はなんと粗末であることよ、とでも思って「棺あって、槨なし」と書いたのであろうか。

 「東夷伝」には他の国の墳墓のようすも書かれている。

 陳寿は、各国の墓制に注目して、その国の文明度をみていたのかもしれない。

 「魏志倭人伝」にある「棺あって槨なし」の記述からみると、ホケノ山古墳は卑弥呼の時代の墳墓には該当しないことになる。

                        (2012.3.31記に加筆、加図。)


  挿図 8:馬王堆1号漢墓の木製の槨室(湖南省博物館・他 『長沙馬王堆一號漢墓 下』1976・平凡社より)

  挿図 9:一番外側の黒漆塗り無文様棺(赤→)(湖南省博物館・他 『長沙馬王堆一號漢墓 下』1976・平凡社より)   挿図 10:二〜四重目の漆塗り木棺(湖南省博物館・他 『長沙馬王堆一號漢墓 下』1976・平凡社より)

  挿図 11:二・三重目の漆塗り彩絵木棺(ネット「しぼりたてチャイナ・考古学の奇跡!湖南省長沙で発掘…より)

  挿図 12:発掘により出現した第17号墳(魯相墓)の木槨上部 (東方考古学会/編『陽高古城堡』1990・六興出版・1990より)

  挿図 13:牽牛子塚古墳の石槨内の様子。左右の床に棺台(ネット「牽牛子塚古墳現地説明会の配布資料」より)

  挿図 14:ホケノ山古墳の石囲い木槨の全景(奈良県立橿原考古学研究所/編『ホケノ山古墳調査概報』2001・学生社より)

  挿図 15:ホケノ山古墳の石囲い木槨の復元模型(奈良県立橿原考古学研究所/編『ホケノ山古墳調査概報』2001・学生社より)


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