館長の小論報第20号
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館長の小論報 第20号

2022/01/16

   ☆第20号 「魏志倭人伝」における「棺あって槨なし」について

 『魏志』倭人伝に倭国の墓制の記事がある。

  《其の死には棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る》〔其死有棺無槨、封土作冢〕

 棺は遺体を納める柩のことであり、槨は棺を納める施設のことである、と私は思っていた。

 槨には木槨や粘土槨・礫槨などがあり、私の認識を裏付けていた。

 ところが、宮城谷昌光の小説『孟夏の太陽』(文春文庫・1994)を読んでおどろいた。

  《焼死した魏舒の屍体を納めた棺が晋都に着いたとき、大臣の士鞅は、棺から椁(外箱)をはずした。椁の多さは身分の高さをあらわしている。≫

 これを言い換えると、棺を入れていた槨(外箱)ごと運んできたということである。

 ということは、石を積み上げた壁や粘土でこしらえた壁ごと棺は運んではこられない。

 椁(=槨)とは棺を内包する外箱であり、二重にも、三重にもなることがあるらしい。

 『日本考古学事典』(三省堂・2002)に「棺・槨」の項を白石太一郎氏が書いている。

  《中国の書『家礼』に「人家の墓、壙・槨・棺は切にはなはだ大なるべからず、まさに壙をしてわずかによく槨を容れしめ、
  槨をしてわずかによく棺を容れしむればすなわち善し」とあり、古代中国では、壙の中に槨、槨の中に棺を納めたとされてきた。
  事実、漢代の木槨墓などでは、土壙の中に1ないし2重の木槨をつくり、その中に棺を納めたものが一般的である。
  日本では古墳などの埋葬施設について、この壙・槨・棺の概念を借用して命名するようになっているが、
  中国に固有の墳墓の埋葬施設の用語を日本の施設に適用するにはやや無理があり、そのため混乱が生じることがある。
  現在では、この3段階にさらに室を加え、壙・室・槨・棺の4段階の用語によって埋葬施設の呼称としており、
  それなりの共通理解が得られるようになっている。(以下略)》

 やはり、槨は棺を容れるものであり、壙あるいは室に納めるものとなる。まさに槨は棺の外箱である。

 日本の墳墓遺構の名称に使用されている「槨」をもって、倭人伝にある「槨」を論じていいものであろうか。疑問が生じる。

 宮城谷氏の小説の背景は春秋時代(BC770〜BC403)である。同時代に近い墳墓に曾侯乙墓(BC433頃)、南越王墓(BC122)がある。

 解説文によると、曾侯乙墓は岩盤に掘り込まれた竪穴木槨墓で、木槨は4室に分かれ、中心の東室には内外二重の棺が納められていると書かれている。

 この二重の棺を写真で見ると内棺と外棺では構造が異なる。内棺は曲線の高さを持った胴部にかぶせる蓋が付いている。

 外棺は大小の6枚の板を組み合わせた箱状のものである。内棺が棺であり、外棺は外箱(槨)のようにも思える。

 曾侯乙墓では、『家礼』に「室」を加えた説明に従えば、岩盤に掘り込まれた壙墓であり、4つの木壁の室に分かれ、
 東室に槨に容れられた棺が納められている、と言えるかもしれない。

図1 墓壙に造られた4木槨      図2 外棺(或いは外箱?)         図3 内棺   

 南越王墓では、小山に竪穴と横穴の墓壙を掘り、750余りの大型の石板を積み上げて墓室が作られている。

 手前を朝堂、奥を寝宮と呼び、それらを計7つの分け墓室を造る。それに入り口の墓道と外蔵槨がある。

 外蔵槨は墓門を全て塞いでいた特異な木造の施設で、門外に二人の殉人が埋葬されていた。

 各室の名称:@主棺室 A西側室 B東側室 C後蔵室 D前室 E西耳室 F東耳室 G外蔵槨 H墓道

 奥の4室の中央に墓主の棺槨を安置する主棺室がある。

 この墓の主人、南越国第二代の趙昧は、逸品の絲縷玉衣を纏って埋葬されている。

 今までの発見出土品のなかで、唯一無二の完全状態のもので、復元に三年を費やしたという。

 主棺室に槨も棺も遺されてされていないが、漆塗りの槨と漆塗りの棺が置かれていた痕跡があったと報告されている。

 やはり、南越王墓でも墓壙内に石室を造りその内側に木製の板で槨を造り、棺を納めている。

 槨は外箱と認識されている。

   図5 前室Dでの遺物の出土状況  図6 南越王墓の平面図  図7 東側室Bでの四夫人遺物出土状況   

 漢墓で有名なものに長沙の馬王堆1号墓がある。この墓は巨大な竪穴墓壙に二重の木槨と四重の木棺で構成されているという。

 そういえば、時代も場所も異なるが、エジプトのツタンカーメンは黄金のマスクを被り三重のミイラ型棺に容れられ、
 人型棺は石棺に入れられ、石棺は四重の厨子に納められている。

 厨子は中国でいう槨にあたる。人のすることは似るものである。

 ところで、日本のホケノ山古墳の木槨木棺墓の「槨」である。「槨」であるのか、「槨」でないのか。どこに問題があるのか考えてみる。

 まず、「槨」は、学校の教室かそれ以上の大きな部屋でなければならないという人がいるが、大きさによる判断はまちがいである。

 「槨」に大きさの基準はなく、棺を容れるものであり、槨と棺の隙間は少ないほど善しとされ、場合によっては、槨は棺を容れて運ぶものである。

 この問題の原因は古代中国で使われた「槨」を安易に日本の埋葬施設の名称に使ったことにある。

 ホケノ山古墳の埋葬施設はもともと倭人伝にある「槨」ではない。「槨」の用語を使うことによる誤解である。

 ホケノ山古墳の埋葬施設は、地山に盛り土した墳丘頂部に竪穴を掘り、その周囲に石を積み上げ、その内側に板材を積み上げ柱で支え、壁を作っている。

 石積みや板積みは竪穴に附属する不動産的な構築物である。石積みや板積みは竪穴から独立したものではない。

 これを倭人伝の「槨」と同じとみるには無理がある。「槨」は元来移動できる動産的な容器である。

 ホケノ山古墳では板壁の竪穴の中に木棺を納めている。あえて、これを名付ければ石積み囲い板壁竪穴木棺墓とでもなるであろうか。

 ところで、陳寿はどういう意味で倭人伝にある墓制記事を書いたのだろうか。槨がないとはどういうことであろうか。

 魏王朝の王侯貴族は、墓を造るときは竪穴を掘り、棺を槨に容れ、ときには棺も槨も二重、三重にして埋葬するのに、
 倭人は棺を槨に容れることをせず、そのまま竪穴に棺を納めて埋葬する。

 槨の存在は身分をあらわすのに、倭国の墓制はなんと粗末であることよ、とでも思って「棺あって、槨なし」と書いたのであろうか。

 陳寿は各国の墓制に注目して、その国の文明度をみていたのかもしれない。


                        (2012.2.10記に加筆、加図。)


  挿図 1:曽侯乙墓の4つの木槨の全景(図録『特別展 曽侯乙墓』1992より)

  挿図 2:曽侯乙外棺、銅の枠にはめ込まれている漆塗り木棺(図録『特別展 曽侯乙墓』1992より)

  挿図 3:曽侯乙内棺、丸みを帯びた蓋付の漆塗り木棺(図録『特別展 曽侯乙墓』1992より)

  挿図 4:南越王墓に埋納の王の絲縷玉衣(図録『中国・南越王』1996より)

  挿図 5:南越王墓の前室での遺物の出土状況(図録『中国・南越王』1996より)

  挿図 6:南越王墓の平面図 (図録『中国・南越王』1996より)

  挿図 7:南越王墓の東側室での四夫人遺物出土状況(図録『中国・南越王』1996より)


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