館長の小論報第19号
館長の小論報第19号

館長の小論報 第19号

2021/12/19

   ☆第19号 「魏志倭人伝」における「馬」について

「魏志倭人伝」に邪馬台国時代における「馬」に関する記事がある。

≪其地無牛馬虎豹羊鵲≫〔その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし〕(註1)

動物研究家の實吉達郎氏はいう。

  《何ゆえ「虎豹羊鵲」はいいとしても「牛馬」まで「無し」の中にいれたのであろうか。
   これはまちがいであることは、卑弥呼・邪馬台国時代には、九州および畿内から発見された飼い牛・飼い馬の化石を調べればわかる。(略)
   馬の化石は佐賀県が二か所、長崎県から四か所、鹿児島県二か所から出ている。奈良県からも一か所報告されている。
   あまつさえ、長崎県五島列島から出ているもの、飯盛町の貝塚から得られたものは小型馬の骨である。
   同じく壱岐郡のものは中型馬の骨。同じく勝本町の加良加美山貝塚のものは、やや大型の馬の化石だった。
   ――なんと、同じ弥生時代に、同一地方に、すでに三つの型の馬が勢揃いしていたのだ。》(註2)

實吉氏は文中に東京農工大の林田重幸教授と東京大学の井上光貞教授の「牛や馬がいても、その数が少なく、
魏人の目にとまらなかったのであろう」という考えを紹介し、その説への疑問も述べている。

實吉氏自身の推論としては「邪馬台国の秘密牧場説」をあげている。

  《そのころ、牛馬はきわめて重要な兵力であり軍事資源であるから、魏に牛馬を召し上げられるのを恐れた邪馬台国では、
   全力をあげて牛馬の痕跡を消し去り、魏人の目をあざむいたのではないか。(略)
   私はこのような軍馬を――将来の軍事行動にそなえて、貴重なることこの上なしの財産を、
   遠方にある秘密牧場に隔離して、中国人の目からさえぎったものと思っている》(註3)

元東京大学医学部教授の岡博氏は實吉氏からおよそ20年後の状況を紹介している。

  《一九八〇年代以降、縄文、弥生のものとされる牛馬の骨は後世のものが縄文、弥生などの遺跡、貝塚に混入したのではないかという疑いを持つ研究者があらわれ、
   『魏志倭人伝』の記述は正しく、牛馬は四世紀以降に朝鮮から日本にもたらされたとする説もしだいに有力になった。(略)
   (以前、長崎県五島列島の大浜遺跡の調査で出土した馬歯、牛歯がAD40年頃と放射能測定で判定されていたが、)
   一九九八年に同じ大浜遺跡でより大がかりな調査が行われ、貝塚の弥生時代の層から出土した牛歯一点と
   馬歯三点の年代をAMSを用いた方法で測定した結果は、七〜八世紀の値を示した。》(註4)

岡氏は『日本書紀』における馬に関する記述にも言及し、自身の論をまとめている。

  《履中天皇以降は馬に関する記述が多くなる。(略)馬具などの出土状況から日本に馬が入ったのは、
  あるいは家畜となったのは四世紀末から五世紀初頭と考えられる。
  『魏志倭人伝』に記された当時の倭人の地には家畜としての馬はいなかったという点には異論は余りないようであるが、
  野生の馬が、あるいは、関東や東北ではある程度家畜化された馬がいたかどうかは、
  今後、出土した骨の年代測定などの積み重ねにより結論が得られると思われる》(註5)

1999年9月15日の佐賀新聞が大見出しを付けて「弥生の馬」の記事を報道している。

 《倭人伝「牛馬なし」の記述覆す 弥生の馬 初の全身骨 呼子・大友遺跡から出土
  古墳時代渡来説に一石 頭部と下肢切断で埋葬》

 記事を見る。

 《東松浦郡呼子町の大友遺跡を発掘調査している九州大学考古学研究室(宮本一夫助教授)は、
  14日までに弥生中期(紀元前後)の埋葬坑から馬の全身骨を確認した。
  骨は放射性炭素による測定など科学的な分析を経て年代が特定されるが、
  同研究室では周辺遺構の状況などから骨が弥生中期の可能性が高いとみている。
  考古学的には日本への馬の渡来は古墳時代というのが定説。
  三世紀の日本社会を記録した中国の史書「魏志倭人伝」は「牛馬なし」としており、
  ”弥生の馬”の出土は全国初。
  魏志倭人伝の記述など定説の見直しを迫る画期的な発見となる。》(註6)

 驚きの記事である。

 佐賀県の新聞には大々的に載ったが、関東ではどうだったのだろう。

 私には見た記憶がない。もっとも、最近物忘れが激しいので、見なかったという自信もない。

 記事には大友遺跡の説明もある。

 《大友遺跡は弥生時代早期から同中期(約2500年〜2000年前)の間に継続して営まれた墓地。
  今回の学術調査では大陸から伝わった墓制といわれる支石墓から、
  縄文以来の在来系の形質的な特徴を持つ人骨六体が出土。
  稲作伝来期の渡来や大陸文化の受容の在り方を研究する遺跡として注目されている。》

 大友遺跡は、弥生早期から始まり、大陸からの文化を受け入れやすい場所にある。

 これは、もう決まりと思う。

 『佐賀県新聞』を見ている人は少ないと思うから、早速、「館長だより」に掲載しようと思う。

 いや、待てよ。

 こんなにセンセーショナルな発見記事が、十年以上も経つのに、どの本にも出てこないということは、おかしい。

 そこで、ネットで調べると埋葬施設や人骨についてはいろいろ記述はあるが、馬については何もふれていない。

 これは、どうしたわけだろう。

 馬の全身骨が見つかったのは、発掘した年から、第5次調査とわかった。

 このときの調査結果が報告書になって発行されていることを知った。

 図書館で県内の横断検索をしてみたが、どこも蔵書していない。

 二転三転して、結局、どうしても確かめたかったので、報告書を購入した。

 『佐賀県大友遺跡 ―弥生墓地の発掘調査―』(2001・国立歴史民俗博物館)である。

 なかに馬の年代測定の結果が書かれている。

 「第9章 大友遺跡出土ウマ遺存体の年代測定  近藤 恵・中村俊夫・松浦秀治」

 《佐賀県東松浦郡呼子町の海岸部に位置する大友遺跡は、石棺墓や支石墓から
  多くの弥生時代人骨が出土した遺跡として知られている。
  1999年に宮本一夫らによって実施された第5次発掘調査の際、一体分と思われるウマの埋葬坑が発見された。
  この墓坑(12号墓)は、弥生時代後期から古墳時代前期の箱式石棺を切っていることから、
  少なくともそれ以降のものと考えられるが、詳細な時代は明瞭でなかった。》

 そこで、研究員らは、放射性炭素年代測定およびフッ素分析による調査を行なう。

 《(その結果は、)現時点では暫定的ながら、大友遺跡12号墓埋葬ウマ遺存体は
  近世のものである可能性が高いとの推察が得られるものと考えられる。》

 なるほど、馬は弥生時代のものでないことがはっきりした。

 あわてて特別記事みたいに紹介しなくてよかった。新聞には何も書かれていない。

 でも、鑑定結果が弥生時代だったら、大騒ぎで書いていたにちがいない。

 古代史を研究する場合、新聞記事は参考にしても、そのまま真に受けてはいけないということである。

 安易に新聞記事を資料としては使ってはならないないと、肝に銘じなければならない。

 大友遺跡の記事は、そのことを教えてくれている。

 2007年に『季刊邪馬台国』の編集子が『記・紀』にある素戔の鳴の尊の「天の斑駒(あまのぶちこま)」の話を取り上げている。

 駒が小馬を意味することを論じ、弥生時代に馬がいたとしたらそれは小型馬である可能性が高いとしている。

 そして邪馬台国時代の馬について二つの可能性を述べている。

  《(1)『魏志倭人伝』の記すとおり、馬はいなかった。日本神話の時代が邪馬台国時代あるいは弥生時代にあたるとすれば、
   後代の馬についての情報が、『古事記』『日本書紀』編纂のさいに、神話のなかに、まぎれこんだのである。
   (2)『古事記』神話の約三分の一は、出雲神話である。かつて、つぎのようなことがいわれた。
   「出雲には、考古学的な遺跡・遺物にとぼしい。出雲神話は、後代のつくり話である。」
   しかし、その後、神庭荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡から、大量の銅剣や銅鐸が出土した。
   現在、考古学的遺跡・遺物がないことは、当時存在しなかったことを意味しない。
   現在、発見されていないだけかもしれない。
   「駒(小馬)」の骨なども、将来出土する可能性がある。》(註7)

 現在、馬の歴史に関する本で、新しいものに蒲池明弘氏の『「馬」が動かした日本史』(2020・文藝春秋)がある。(註8)

  《縄文時代、弥生時代の日本列島に馬はいなかった。
   馬の飼育という新しい文化が朝鮮半島から持ち込まれ、広がってゆくのは五世紀前後の時期、古墳時代中期の出来事だ。
   各地の遺跡から出土した「馬の骨・歯」「馬具」「馬の形の埴輪」という三つの遺物が、五世紀ごろに馬の飼育が定着した証拠とされている。》

  《なぜ、日本では馬の普及が遅れたのか。
   考古学者の桃崎祐輔氏は、「日本列島に朝鮮半島から馬が来る契機はたくさんあったはずなのに、
   この段階まで遅れたのは、たぶん朝鮮半島側で技術流出を恐れていたからでは」と発言している。
   世界の歴史のなかで馬は、軍事力の根幹だった。「ウマの取引にはさまざまな制約があった。
   ひとつには安全保障上の理由―すなわち軍事的優位を守るためだ」(J・チェンバレン『馬の自然誌』)というのは当然のことだ。》

 蒲池氏の記述が、もっともと思われるが、別の発言の考古学者もいる。

 纒向遺跡を発掘調査された石野博信氏である。

  《日本列島の太平洋岸には3・4世紀の馬具・馬歯が集中する。
   とくに倭国女王・卑弥呼墓、あるいは台与墓に比定される奈良県桜井市箸中山古墳(箸墓)の円丘部裾の内環濠出土の
   木製鐙の共伴土器群の大半は纒向3〜4類(旧庄内式)で一部、纒向5類(布留1式)を含む。
   つまり、日本列島での乗馬の風習は古くても5世紀中葉と考えられている今、
   新しく見ても3世紀末・4世紀初頭の古墳内環濠に乗馬に際して足をかける鐙が含まれていた。》(註9)

 石野氏はこの後、根拠とする遺跡の出土馬具・馬歯を3例記す。

 @ 奈良県香芝市下田東遺跡:4世紀・布留式の完形土器群と木製鞍出土。

 A 山梨県甲府市塩部遺跡:4世紀の五領式土器と馬歯出土

 B 長野市浅川端遺跡:馬形帯鉤出土

 それぞれの情報を調べてみる。

 @ 鞍は遺跡内の旧河道3001から出土。鞍の直近では、5世紀前半(古墳時代中期)の古式土師器が多く出土していることから、全国でも最古級にあたる。
  同じ河道からは、確かに布留式の完形土器群の出土があるが、縄文式土器、石器、土師器、須恵器なども見つかっている。(註10)

 A 写真に4世紀後半の遺物とウマの下顎歯合計10本と説明。1本だけの遊離歯だと後世の混ざり込みの可能性があるが、今回は年代が正確であると記載。
  ただし、放射性炭素年代測定およびフッ素分析による調査など科学的な分析についての記述はない。(註11)

 B (日本出土の「馬形帯鉤」について)国内においては40例近い製品が知られているが、出土地が明らかなのは長野県浅川端遺跡出土品が(中略)
  唯一発掘調査によって出土状況が確認された例であるが、7世紀後半代の竪穴住居埋土最上層からの出土と報告されている。
  「馬形帯鉤」は朝鮮半島で2〜4世紀に製作されているもので、浅川端遺跡出土年代とは300年に近い隔たりがある。(註12)

 石野氏の記述する年代は、他の資料とは異なる場合が目立つ。何か、思い込みでもあるのだろうか。


 以上、調べた結果からは、日本に於ける「馬」の存在は、蒲池明弘氏のいう「五世紀前後の時期、古墳時代中期」からと思われる。

             (2014.9.28記に2021.12.12.訂正加筆)


  挿図 上:『佐賀新聞』1999.9.15の記事。(『月刊 文化財発掘出土情報』第210号(1999.11)より)

  挿図 中:『佐賀県大友遺跡』(2001・国立歴史民俗博物館)の表紙。

  挿図 下:『「馬」が動かした日本史』(2020・文藝春秋)の表紙・帯付


(註)
(1) 石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫1985
(2) 實吉達郎「邪馬台国の動物」『季刊邪馬台国』第27号1986
(3) 實吉達郎(註 2)
(4) 岡 博「邪馬台国に馬はいたか」『季刊邪馬台国』第90号2006
(5) 岡 博(註4)
(6) 佐賀新聞1999.9.15 『月刊文化財発掘出土情報』1999.11
(7)『季刊邪馬台国』編集子「討論・邪馬台国に馬はいたか?」『季刊邪馬台国』第95号2007
(8) 蒲池明弘『「馬」が動かした日本史』(2020・文藝春秋)
(9) 石野博信「『魏書』倭人条の「五尺刀」「銅鏡」と倭の海民」(『京都府埋蔵文化財論集 第8集』2021.8)
(10)『下田東遺跡発掘調査報告概報 U』(2006.3)
(11)ネット「山梨県/遺跡トピックスNo.0268日本最古級のウマ-塩部遺跡(しおべいせき)」
(12)柳本照男「海を渡った馬形帯鉤」(なみはや歴史講座 第76回 2016,8 レジュメ)


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