館長の小論報第16号
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館長の小論報 第16号

2021/10/31

   ☆第16号 「景初暦」の復元(承前)

この表4は五者を比較して最終的に私が有効かつ便利として選んだ「両千年中西暦転換」の表である。

表4 「両千年中西暦転換」による景初年間前後の朔の干支表

表4によって、前掲の『三国志』「明帝紀」訳文に出てくる景初年間の干支を調べてみると、32例中29例が合致する。

不一致の3例については後で検討するが、圧倒的に干支照応が合致するので、
「両千年中西暦転換」表による干支照応はほぼ間違いないと思われる。

それでもなお、多くの研究者が景初元年4月朔の干支を3月の欄に記入をしたり、
「後十二月」をあえて記載していないのはなぜであろうか。疑問が残る。

今鷹真氏、井波律子氏 訳の『三国志』によって検討してみる。

『魏志』「三少帝紀」の訳文に不思議な記載がある。

 《景初三年(239)正月丁亥朔(12月1日)明帝が重体になった》「三少帝紀」

訳者による日にち記入は西暦への照応をしているわけではないので、月が変わることはない。

正月朔は文字通り1月1日である。それが12月1日と( )内の記載は月を1ヵ月変更している。なぜであろう?

次の記事でも2月を1月としている。

 《〔景初3年2月〕丁丑の日(1月21日)に詔勅を下した》(斉王紀)

このあと「三少帝紀」には、12月に「後十二月」の詔勅の記事がある。

『魏書』の原文には( )内の記載はない。これは訳者が書いたものである。

なぜこのような記載をしたのか、訳者の気持ちを勝手に推測してみる。

明帝が正月に崩御したので、暦をこのまま手を加えずに使用すると、翌年の正月に喪の行事をしなければならなくなる。

それは避けなければならない、と斉王は考える。熟慮の末、喪の行事が目前にせまった12月に詔勅を下した。

 《「烈祖明帝は正月に天下を見捨てられ、臣下や子供たちはいつまでもそのご命日の哀しみを抱き続けている。
  それゆえふたたび夏王朝の暦を使用せよ。(略)そこで建寅の月(北斗星の柄が寅の方角をさす月――1月)を
  正始元年正月とし、建丑の月(北斗星の柄が丑の方角をさす月――12月)を後の十二月とせよ。」》

ここで訳者は、斉王芳が関係する景初年号は、斉王芳の改暦にもとづいて判断すべきであると考えたのではないだろうか。

斉王芳の詔勅を「後十二月」と「正始元年正月以降」のことに限定して考えるか、明帝のおこなった「景初元年四月以降」の
改暦すべてを含むことと解釈するかによって、意味が異なるが、『三正綜覽』『金印研究論文集成』『二十史朔閏表』は
後者の考えに基づいて作表しているようである。

明帝の改暦を旧暦、斉王芳の改暦を新暦として月の移動をみると次のようになる。年号は景初である。

旧暦の景初元年4月を新暦の3月に当てている。

つぎも同様で、旧暦・元年5月は新暦・元年4月となる。旧暦月のマイナス1ヵ月が新暦月の月数となる。

旧暦・2年1月→新暦・元年12月、旧暦・2年2月→新暦・2年1月、……。

旧暦・3年1月→新暦・2年12月、ここで明帝が崩御した月が新暦の12月となる。

そして旧暦・3年12月→新暦・3年11月となり、つぎに「後の十二月」を加えている。

このことは旧暦からみれば12月が2度続くことになり、新暦では喪の行事が
この月に行なえて、そのうえ消えた青龍5年3月分を調整したことになる。
以後、新暦・正始元年正月、……となる。

以上のようすをイメージすると、表5になる。

表5 明帝の改暦による旧暦と斉王芳の改暦による新暦との月の対比表

先に引用した「三少帝紀」の訳文の干支照応記事の疑問はこれで解消する。

『三国志』の訳者は「三少帝紀」の注記に書いている。

 《明帝は景初三年の正月に崩じ、斉王は翌年暦を変更してその正月に即位した。
  新暦の正月は旧暦では二月に当る。したがって旧暦の正月と新暦の正月とで、
  正月が二度重なることになって具合が悪い。
  そのため旧暦の正月を後の十二月として、十二月を二度置いたのである。》

ここで、この観点も考慮して『三国志』「明帝紀」訳文にある景初年間の干支で不一致の3例をみると、次のことが考えられる。

 (1)《景初元年春正月壬辰の日(18日)》

    元々景初元年正月は存在しないが、青龍5年正月を景初元年正月とみると
    朔は己亥となる。正月に壬辰はないが、壬辰が18日の月は朔が乙亥である。
    筆字の己亥と乙亥は似ていることが気になる。

 (2)《明帝は古典に依拠し、甲子の日(3月26日)、詔勅を…》

    明帝は青龍5年3月を景初元年4月に改元しているので、暦上3月は存在しないが、改暦せず、青龍5年3月に続いていたら、
    甲子の日は3月27日となる。一日ちがいである。

 (3)《(二年秋)丙寅の日(9月10日)》

    秋は7月、8月、9月である。この記事は「秋八月癸丑の日(24日)」の後にあるので、対象は8月、9月の丙寅である。

    8月に丙寅はなく、9月の丙寅は7日である。三日ちがいである。10日が丙寅の日である月は朔が丁巳の月である。

    景初二年で朔が丁巳の月はない。

3例中の(2)は新暦で計算すると一日ちがいで存在する。(3)は旧暦8月癸丑のながれでいくと、三日ちがいで存在する。

(1)は見間違いが想像できるが確かなことは不明。どれも確定は出来ないが、大勢に影響ないほどの件数と思われる。

以上の結果、「景初暦」の復元には大きくみて、二つの流れがあるように思われる。

 (T)『魏書』「明帝紀」の記載どおり、青龍5年は2月までで、3月はなく、
    明帝の詔勅により景初元年の4月に移ると考える。

    景初2年の閏月は閏11月であり、景初3年末には「後十二月」があると考える。

    こちらは明帝の在位中の記録に出てくる干支を照応するには便利である。

    「明帝紀」の文章を見る限りでは、斉王芳の詔勅によって、暦がもとに
    戻されたとしても、明帝治世中の公文書の記録にある月日まで書き換える
    ことはなかったと考えられるからである。

    『三千五百年暦日天象』、「両千年中西暦転換」がこちらに属する。

 (U)明帝が行なった改暦のため削られた青龍5年3月(−1ヵ月)と景初3年末に
    加えられた「後十二月」(+1ヵ月)とで、結果的に+・−・0になる。

    そして斉王芳の詔勅で暦がもとに戻されるので、あえて青龍5年3月を削らず、そのまま続ける。

    すると明帝の崩御した景初3年正月元日は、景初2年12月1日に当たる。

    正始元年正月の前に設けた「後十二月」は明帝の一周忌の行事を行なえる通常の12月となる。

    斉王芳の行なった改暦をそのまま受けて、暦のうえでは明帝の改暦がなかったかのごとく、
    あとから遡って青龍5年2月以前の暦に戻してしまっている。

    こちらは、明帝の一周忌の行事がなぜ12月に行なえるのか、「後十二月」の意味を理解するには適している。

    この考えによれば、正始元年以降に明帝の喪の行事が行われる場合でも、
    その都度、暦上に特例を設けなくても、通常の12月に行なえることになる。

    また、〔斉王紀〕中に出てくる景初年号の干支を理解するにも役立つ。

    『三正綜覽』、『三国志』(筑摩書房版・訳本)、『金印研究論文集成』、『二十史朔閏表』がこちらに属する。

(T)、(U)は一方が正しく、他方が間違っているというものではない。

それぞれに根拠があり、一長一短がある。時に応じて使用されると便利と思われる。

私が掲載した「景初暦」表4は(T)の立場から作成されたものであるが、
その内容を理解された上で有効に利用いただけたら、うれしいかぎりである。

最後にここに至るまでに、安本美典氏より参考文献や史料理解に関する多くの
情報、ご教示をいただき、こころよりお礼を申し上げる。

特に『三千五百年暦日天象』は入手困難なことをご存知で、
該当箇所をファックスして頂いた。重ねてお礼を申し上げる。

          (『季刊邪馬台国』第104号 2010.2月 掲載)


  挿図6・7:表6・7 四書(@〜C)の景初元年前後の実本よりの複写

  挿図4:表4 「両千年中西暦転換」による景初年間前後の朔の干支表
  挿図5:表5 明帝の改暦による旧暦と斉王芳の改暦による新暦との月の対比表
  挿図6:表6 四書(@・A)の景初元年前後の実本よりの複写
  挿図7:表7 四書(B・C)の景初元年前後の実本よりの複写

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