館長の小論報第15号
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館長の小論報 第15号

2021/10/24

   ☆第15号 「景初暦」の復元

「景初四年」問題を皮切りに古代中国の暦に足を踏み入れ、魏の明帝が設定した「景初暦」が複雑な問題を抱えていることが多少なりともわかってきた。

中国暦と西洋暦を照応すると、本によって、異なる日にちや干支を記している。

何故なのか、異なる理由をすこしでも明らかにしながら、私が納得できる「景初暦」の復元をしてみたい。


『魏志』倭人伝によると倭国の女王・卑弥呼は景初三年(あるいは二年)に魏の皇帝に使者を遣わしたとある。

また、日本の古墳から景初年号銘のある銅鏡が出土している。

魏の年号「景初」は、日本の古代史にとって重要な年号のひとつである。

『魏志』をはじめ多くの史料に「景初」の記事があり、日にちを干支で書いているものがある。

例えば、『晋書』の「天文志」につぎの記事がある。

 《景初元年(237)二月乙酉に、月が房宿第二星を犯した。》

以下、記事は、元年七月辛卯、二年二月己丑、五月乙亥、(三年)十月甲午と続く。

これらの干支が何日であるか、西暦のいつにあたるか、あるいはその月に記載されている干支が本当に存在するのかを知ることは、
魏の歴史を知るうえで必要であり、ひいては卑弥呼の時代を知るうえでも意味あることと思われる。

それを調べるための本がいくつかある。

・中国暦と西洋暦を照応
 @『金印研究論文集成』(大谷光男 編著・1994・新人物往来社)
 A『三千五百年暦日天象(第2版)』(張培瑜・1997・大象出版社)
 B『二十史朔閏表(第4次印刷)』(陳垣・1999・中華書局)

・中国暦と日本暦と西洋暦を照応
 C『三正綜覽(補正新訂版)』(内務省地理局 編纂・1973・芸林舎)

・(参考)日本暦と西洋暦を照応
 D『日本書紀暦日原典』(内田正男 編著・1978・雄山閣出版)
 E『暦 日本史小百科5』(広瀬秀雄・1978・近藤出版社)
 F『日本暦綴 上巻』(井上大介 編・1995・辻通商)

この他で参考になるものに『三国志』(今鷹真、井波律子 訳・1977・筑摩書房)がある。

この訳本には『三国志』の文中に出てくる干支の日が何日であるかの記載がある。

例えば「二月癸卯の日(11日)、太中大夫…」のように書かれている。( )内の日にちは原文にはなく、訳者の記入である。

前掲の@〜Cの四書を使えば、干支の日にちがいつであるか調べられるはずであるが、これがなかなっ簡単にはいかない。

まず、四書の記載が微妙に異なる。

『三正綜覽』は西暦237年2月12日を景初元年正月朔(1日)・己亥と記し、『二十史朔閏表』は同年2月13日を青龍5年正月朔・己亥としている。

『金印研究論文集成』の「景初暦」表では景初元年正月朔は戊戌、2月12日とある。『三千五百年暦日天象』は同日を青龍5年正月朔・戊戌としている。

同じ日が、ある本では年号を青龍5年といい、他は景初元年という。干支も己亥と戊戌の二種がある。

研究者によって中国暦と干支や西洋暦との照応が異なっている。「景初暦」の復元はまだ確定されていないのだろうか。

ただし、なぜか西暦237年6月11日にあたる月(中国暦では5月と6月がある)の朔(1日)では四書が丁酉にピッタリ一致している。

これらの微妙なちがいを理解してもらうために、四書の景初元年正月前後を比較した表1作る。( )内に記す西暦の日にちはすべてAD237年である。

表1 四書(@〜C)の景初元年前後の比較表

『魏志』明帝紀によると、青龍5年は2月で終り、翌3月を景初元年4月といたという。

 《景初元年(237)春正月壬辰の日(18日)、山荏県から黄龍が出現したと報告してきた。
  このとき担当官吏が上奏し、魏は地統を得ているゆえ、建丑の月を正月とすべきだと主張した。
  三月に暦を改定し年号を改めて孟夏(初夏)四月とした。》(『三国志T』「明帝紀」1977・筑摩書房)

 《景初元年春正月壬辰,山荏縣言黄龍見。於是有司奏,以為魏得地統,
  宜以建丑之月為正。三月,定暦改年為孟夏四月。》(『三国志』「明帝紀」)

 《『魏書』にいう。(略)明帝は古典に依拠し、甲子の日(3月26日)、詔勅を下して述べた。(略)
  「よって青龍五年三月を景初元年四月と改める。」》

 《魏書曰:(略)帝據古典,甲子詔曰:(略)「其改青龍五年三月為景初元年四月。」》(『三国志』「明帝紀・注」)

青龍5年は2月までで3月以降が存在せず、景初元年には正月から3月まではないということである。

しかし、『二十史朔閏表』の青龍5年の欄は1月から12月まで続いており、翌年を景初2年にしている。

もっとも、下の欄に《魏三月改元景初、始用景初暦、以三月為四月、十二月為正月》と改月のことは書かれている。

『三正綜覽』は青龍5年をまったく記さず、景初元年を1月から始めている。 上の欄外には《魏用景初暦 以十二月為歳首 改三月為四月》とある。

二書はともに別欄に、青龍5年2月のつぎを景初元年4月にしたと書いているのに、
削除されたはずの3月の欄は空白にはならず、そのまま何事もなかったように続けて記入をしている。

『金印研究論文集成』には特に注記がなく、景初元年は1月からはじまり、前二書と同様に3月を記入している。

『三千五百年暦日天象』のみが、3月を削除しているが年号は4月以降も青龍5年のままである。

それぞれの史料の様子を文末に図示しておく。(表6)

そのうえ、『二十史朔閏表』、『三正綜覽』、『金印研究論文集成』の三書にはなぜか景初三年に「後十二月」の記載がない。

「後十二月」とは明帝が景初三年正月元日に崩御し、翌年の正月元日が忌日になることを避けるために12月の後に特別に設けた二度目の12月である。

これほど研究者によって「景初暦」表が異なっているのでは、なにをもとに干支の日にちを照応したらいいのか訳がわからない。

どれが正しい照応なのか、ほかに照応表はないのか、いろいろと調べていた時に、
ネットで簡単に中国暦と西洋暦を相互換算し、干支に該当する日にちを一覧表にしたサイトを見つけた。

台湾中央研究所が運営する「両千年中西暦転換」(http://sinocal.sinica.edu.tw/)である。

このサイトの最終更新は2007年7月となっているが、1997年から掲載されているようである。

このサイトで景初三年を調べると「後十二月」の記載があり、青龍5年から景初元年への移行も『魏志』の記述どおり行われている。

前掲の表1に「両千年中西暦転換」によって得た情報を加えて表2として、再掲載する。

表2 「両千年中西暦転換」と四書(@〜C)の景初元年前後の比較表

「両千年中西暦転換」によって私の疑問がすべて解消されている。

まず、実際には存在しなかったにもかかわらず「削除されなかった三月」の一カ月分は、三書(@BC)の表では、
常に−1月状態でずれたまま記入され、景初三年末まで進み、実際の12月を11月としている。

そして付加されるべき「後十二月」を特別に設けず、そこに12月を入れ、辻褄を合わせている。

その結果、正始元年正月朔(1日)は、五者とも辛亥となっている。その部分を表3にする。

表3 「両千年中西暦転換」と四書(@〜C)の景初三年末前後の比較表

削除されなかった3月と付加されなかった後12月によってプラス・マイナスでゼロとなり、
三書(@BC)は何ごともなかったように正始以降の記載を続けている。

このからくりを常に念頭において三書(@BC)によって干支の日にちを求めれば問題はないが、
このことを、三書(@BC)を見るすべての人に強いるのは無理というか、まことに不親切な表記といわざるを得ない。

なお、三書(@BC)には、景初二年に閏10月を設けているが、「両千年中西暦転換」と『三千五百年暦日天象』では閏11月となっている。

このことも『魏書』の文章が閏11月を記す両者を支持している。

 《(景初二年)冬十一月、(略)崔林を司空とした。閏月、月が心の中央の大星を犯した。
  十二月乙丑の日(8日)、明帝は病の床についた》(明帝紀)

閏月は前月を受けるので、11月と12月に挟まれた閏月は閏月11月である。

『三千五百年暦日天象』は青龍5年2月の翌月から景初元年に変わることを注記すれば3月を4月に変えているので、
「両千年中西暦転換」と同様に『三国志』の記述に忠実である。

そのため、干支の日にちを知るのに便利と思われるが、両者にはまだ解決されていない問題がある。

「青龍」から「景初」へ移る前後の干支のちがいである。

『三千五百年暦日天象』は青龍5年正月朔の干支を戊戌とし、「両千年中西暦転換」は己亥としている。

その後の干支もしばらく異なる。両方が共に正しいとは考えられない。

しかし、表2をみると不思議なことにともに青龍4年12月朔を庚午としている。

そのうえ、共に景初元年6月朔が丁酉になっている。ここに問題を解く手がかりがありそうである。

まず、青龍4年12月は大の月で、朔が庚午である。翌5年正月の朔を計算してみると己亥である。以下6月まで計算してみる。

青龍5年1月(大)己亥→2月(小)己巳→景初元年4月(大)戊戌→5月(小)戊辰となり、つぎの6月は丁酉となる。

「両千年中西暦転換」が正しいことになる。

なにを根拠に『三千五百年暦日天象』は青龍5年1月朔を戊戌としたのであろうか。両者を一ヵ所づつ見比べてみて気が付いた。

「両千年中西暦転換」と『三千五百年暦日天象』とではたった一ヵ所であるが月の大小が異なっている。

青龍5年5月が「両千年中西暦転換」は小の月であるが、『三千五百年暦日天象』は大の月となっている。

今度は6月丁酉から遡って計算してみると、6月丁酉→5月(大)丁卯→2月(小)戊辰→1月(大)戊戌。

5月を大の月にすると、すべて『三千五百年暦日天象』の通りとなる。それなりの根拠があったことがわかる。

ここで、気になることがひとつある。両者ともに景初元年6月を小の月と記載していることである。

古代中国の暦では、1年の長さが実際の1年より短いために閏月を加えたり、
二十四節季の関係で大の月を続けたりして調節しているが、私は小の月を続ける例を知らない。

暦そのものを変えたとき、まれにこのような例が起きうるであろうか。

ありえないという点に重きを置くと『三千五百年暦日天象』が正しいといえそうである。

そこでためしに『三正綜覽』で、西暦200年から300年まで調べてみた。

すると「景初元年(237)四月小、五月小」のほかに、「景元三年(262)六月小、七月小」と「景元四年(263)八月小、九月小」がある。

珍しいことではあるが、あることがわかった。

そうなると小の月の連続が可能であり、大の月で朔が庚午の翌月の朔は必ず己亥であるということから「両千年中西暦転換」が一番有効と思われる。

以上をかんがみて、わたしは、これから干支の日にちの照応をされる方には「両千年中西暦転換」を使われることをお薦めする。

このサイトをみると朔の干支だけでなく、月内のすべての日にちが掲載されており、いちいち計算する必要がない。

このほか、西暦表記で日にちが異なることは、確たる根拠はないが、『二十史朔閏表』と『三正綜覽』の一日ちがいの理由は
西暦のユリウス暦とグレゴリオ暦で日にちが微妙に異なることが原因しているかもしれない。干支はすべて一致している。

以上で、景初年間の朔の干支が判明し、西暦との照応もわかったので、他の人が私のようなまわり道をしないように
青龍五年から正始元年までの朔の干支表を掲載する。(次号につづく)


      挿図1:表1 四書(@〜C)の景初元年前後の比較表
      挿図2:表2 「両千年中西暦転換」と四書(@〜C)の景初元年前後の比較表
      挿図3:表3 「両千年中西暦転換」と四書(@〜C)の景初三年末前後の比較表


          (『季刊邪馬台国』第104号 2010.2月 掲載)


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