館長の小論報第14号
館長の小論報第14号

館長の小論報 第14号

2021/10/17

   ☆第14号 「景初暦」の復元への道程 その2

ここで、『三国志』や紀年銘鏡に出てくる景初暦の年・月の矛盾や不可解の例を取り上げてみる。


(7)公孫淵の死

『三国志』「明帝紀」に公孫淵の死についての記事がある。

 《(景初二年秋八月)癸丑の日(二十四日)彗星が張宿に出現した。
  丙寅の日(九月十日)[七日の誤]、司馬宣王が襄平において公孫淵を包囲し、大いにこれを撃ち破って、公孫淵の首を都に送りとどけ、
  海東(遼東)の諸郡は平定された。》(『正史 三国志1』今鷹真・井波律子 訳による)

 《秋八月,(中略)癸丑,有彗星見張宿。丙寅,司馬宣王囲公孫淵於襄平,大破之,伝淵首于京都,海東諸郡平。》(明帝紀)

「公孫度伝」にもある。(『正史 三国志2』井波律子・今鷹真 訳による)

 《(景初二年)八月丙寅の日(七日)夜、長さ数十丈の大流星が、首山の東北から襄平城の東南に落下した。
  壬午の日(二十三日)、公孫淵の軍勢は総崩れとなり、〔公孫淵は〕子の公孫脩とともに数百の騎兵隊をひきいて包囲を突破して、東南に逃亡した。
  〔司馬宣王の〕大軍はこれを急襲し、ちょうど流星の落下した地点で、公孫淵父子を切り殺した。》

 《八月丙寅夜,大流星長数十丈,従首山東北墜襄平城東南。壬午,淵衆潰,与其子脩将数百騎突囲東南走,大兵急撃之,当流星所墜処斬淵父子。》

明帝紀では丙寅の日を9月10日(7日)とし、公孫度伝では8月7日と訳している。なぜであろうか。

明帝の改暦に忠実な『二十史朔閏表』で景初2年8月朔日(1日)の干支を調べると、庚寅である。

1日(朔)が庚寅ではじまる月に丙寅は存在しない。丙寅が出てくるのは翌9月の7日である。

明帝の改暦を無きが如く考える『三正綜覧』で景初2年8月朔日の干支をみると、庚申である。丙寅は7日となる。そして、壬午は23日となる。

この場合、『二十史朔閏表』と『三正綜覧』のどちらを採用すべきであろうか。

公孫淵征討は明帝の時代でのできごとであるので、私は『二十史朔閏表』に従うべきであろうと考える。

多くの研究者は「八月丙寅の日」の記述にしたがって、公孫淵の死を壬午の8月23日といっている。

しかし、私は公孫淵の死は景初年間の出来事であるので、本紀の明帝紀に従い、景初2年9月7日がいいと思う。

この公孫淵の死の記事は、正史の記述であっても、異なる記述が出てくるのは、いろいろな基準、記録をもとに書かれていることを示していると思う。


(8)景初四年銘盤龍鏡

1986年10月に京都・広峯15号墳から景初四年銘盤龍鏡が発見された。出土した鏡について『ブリタニカ国際大百科事典』に解説がある。

 《京都府福知山市広峯の丘陵稜線上にある広峯古墳群の広峯 15号墳 (4世紀末〜5世紀初頭ころの前方後円墳) から出土した銅鏡。
  割竹形木棺の内部より剣、鉄斧 、鉄鏃とともに見つかった。銅鏡は直径 16.8cmの四頭式盤龍鏡で、
  銘帯には裏文字を含む「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人ミョウ(言+名)之位至三公母人ミョウ之保子宜孫壽如金石兮」と判読された 35文字の銘文が見える。
  鏡は鋳上がりも良く、類似の文様を有するものが中国から出土していることなどから中国製と考えられる。
  その後兵庫県辰馬考古資料館蔵品中に同笵鏡 (出土地不詳・〔伝宮崎県持田古墳群出土〕) が見いだされ、にわかに注目を集めた。
  これらの鏡背銘文にある「景初四年」は卑弥呼が魏に朝貢を行なった景初三 (239) 年の翌年に当たるが、改元で正始元 (240) 年となって実在しない年号である。
  紀年銘鏡に見られる魏の年号には「景初三年」「正始元年」等があり、これらの年号を持つ銅鏡の中には魏から卑弥呼へ下賜されたものが含まれていると考えられているが、
  「景初四年」銘を日本での鋳造による誤記と見て、さらに「正始元年」銘等の三角縁神獣鏡も国産とみなす説が出されている。》

藤田友治氏の『三角縁神獣鏡』(1999・ミネルヴァ書房)に、別解説がある。

 《(本鏡は)盤龍鏡の中では大型である。鈕のまわりに四頭の龍(・虎)が正面と横向きの一対ずつ向き合わせに配置されている。
  よく見ると龍と虎の間に小乳で区分されており、中国鏡ではほとんど見られない特徴をもち、本鏡は斜縁であるが三角縁龍虎鏡に関連し、
  銘文の逆時計回りや、逆字(月、珍、壽など)、さらに「景初四年」という中国にあり得ない年号と合わせ、国産であることの証拠となっている。》

この鏡が中国産か、国産かは、私にはよくわからないが、出土遺物に実在しない年号が銘記されているのは、事実である。

単なる間違いか、一部の人たちには使われていたのか、考察は意味があると思う。


(9)景初四年は存在したか? ―私的景初四年小論争

2010年2月、『季刊邪馬台国 104号』に拙論「「景初四年」は、存在した!」が掲載された。まず、それを抄録する。

1986年に四年銘鏡が発見されると、多くの研究者が景初四年はないという前提で四年銘鏡をどう解釈したらいいかと論をすすめる。

ところが、1998年小林恵子氏が井沢元彦氏との対談で『晋書』「天文志・中」に景初四年が出てくると指摘する。『晋書』をみると確かに出てくる。

 《景初元年七月、公孫文懿が叛した。二年正月、〔明帝は〕宣帝を遣して、これを討った。
  三年正月、天子は崩じた。四年三月己巳に太白〔金星〕と月は、光を加え、昼(のように)見えた。》

 《景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。四年三月已巳,太白与月倶加景昼見》(晋書・天文志・中)

『晋書』の記事によって、『魏志』に景初四年が出てこなくても、当時、正始元年(240年)と景初四年(240年)はともに使われていたと思われ、
鏡に銘記されても不思議ではないことになる、と私は結論した。

それに対し、2011年1月、『季刊邪馬台国 108号』に橿原考古学研究所の入倉徳裕氏より、『晋書』の読み方が間違っていると指摘される。

「『晋書』に「景初四年」は存在しない」である。

入倉氏によれば、『晋書・天文志』の記事は@天象記事、A占い記事、B事件記事を並記する形になっていて、
@の天象観測には干支の日が記され、Bの事件には干支の記載がないという。干支の有無によって記載年月が@かBかの判断できるという。

問題の「四年三月已巳,太白与月倶加景昼見」は干支があり、記事も天象である。

よってこの四年は、直ぐ前の「景初元年七月」を受けるのではなく、それより前にある「青龍二年十月乙丑」を受ける。よって四年は青龍四年と読まれるという。

 《青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白,占曰:「人君死,又為兵。」景初元年七月,公孫文懿叛。……》

入倉氏の指摘どおり、私の読み方は誤りであり、晋書に景初四年はない。

私の読みは、間違いであったが念のため、天文志にある天象に関する「史伝事験」の記事をすべて調べてみた。すると原則どおりに書かれていない場合が多く見られた。

@の天象観測にあるべき干支がない事例は『天文志・中』に27例、『下』に133例ある。Bの事件記事にないはずの干支がある事例は『中』に3例、『下』には10例ある。

そして、事件記事のなかにも天象のことを書いたものがある。

そこから、「四年」を青龍とするか、景初とするかは、書き方だけではなく、その文章の内容など他のことからも検討しなければ決められないと屁理屈を考えた。

原稿を梓書院の編集者に見てもらったが、内容が文章の読み方の問題になり、四年問題から離れすぎるという理由で却下された。これで論争は終った。

ところが、2011年6月、『週刊新潮』に聖徳大学の山口博氏への取材記事が出る。「『邪馬台国』論争にケリをつける!?『卑弥呼の鏡』の新証拠!」である。

 《三角縁神獣鏡のなかに[景初4年]という中国に実在しないはずの年号 が彫られた出土品があるという疑問についても、それを覆す文書があるという。
「唐の時代に編纂された『晋書』という歴史書があります。この中の巻12「天文志」に[景初4年]という年号が出てくる。
 天文志とは天体観測の記録などで日時に関してはかなり正確を期しているはず。当時、[景初4年]が当たり前のように使われていた証拠。」(山口談)》

これは、間違いである。中国文献に精通する研究者でもときにはまちがえる。この文につづいてもうひとつの証拠が書かれている。

 《同じように清時代に編纂された『佩文韻府』という書にも[景初4年]という年号が出てきます。(山口談)》

『佩文韻府』は初耳である。『佩文韻府』とは1720年成立の韻書で、末字の韻が同じ熟語をあつめた辞書である。

中国古典の語彙の出典を検索する上で、大変に便利という。地元の図書館に所蔵されていないので、千葉県立中央図書館で調べた。

しかし大変便利といわれるが私にはさっぱりわからなかった。

安本美典氏が『季刊邪馬台国 110号』(2011.7)がさっそく取りあげている。「『週刊新潮』の、邪馬台国論争関係の記事について」である。

それによると景初四年は『佩文韻府』の「青ケン(糸+兼)」と「加景」の項にあるという。

「青ケン」:魏志倭人伝景初四年倭王遣使上献生口倭錦絳――緜衣帛布
「加景」:晋書天文志景初四年三月已巳太白与月倶――昼見月犯太白

青ケンは倭人伝の正始四年記事に出てくる。

 《正始元年。(中略)其四年倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹木、フ(狗-句+付)、短弓矢。》

加景にある晋書の四年は正始四年のことである。

山口氏の紹介した証拠は、まちがいなく『佩文韻府』に書かれているが、ともに『佩文韻府』の撰者の読み間違いである。

山口氏は引用箇所の原典に当らずに公表したのであろうか。以上で、私における景初四年小論争は終了した。


(10)新たに景初四年を考える

景初には4年がない。存在しない年が記さているということで問題になった。

皇帝は領土、領民を支配するだけでなく、暦、元号によって時間をも支配する。元号は漢の武帝が始めたもので(建元が初)、皇帝にとって非常に重要なものである。

そのため官営工場の尚方で「景初四年」銘が刻まれるとは考えられない。また、武帝以来、皇帝が死んでもその年の年号は続け、翌年に改元する制度である。

これを踰年称元法という。そのため、明帝が死んだ景初三年は末まで続き、翌年に改元されることは、王都では自明のことである。

景初三年後十二月が景初四年という説はありえない。ちなみに、現代日本のように天皇の交代直後に改元するのは立年称元法という。

『三国志』に景初四年はなく、たぶん魏王朝における公式な記録にも記録されていないであろう。

しかし、先の「公孫淵の死」におけるように「景初暦」によらない別途資料の存在は想像される。

すなわち、「青龍5年2月」の改暦を無視して太和暦のままで残された記録があるということである。

また、「私的景初四年小論争」で、『晋書』「天文志」を調べていたときに興味深い記述をみつけた。

 《恵帝太安二年十一月庚辰,歳星入月中。占曰:「国有逐相。」十二月壬寅,太白犯月。占曰:「天下有兵。」三年正月乙卯,月犯太白,占同青龍元年。
  七月,左衛将軍陳等率衆奉帝伐成都王,六軍敗績,兵逼乗輿。後二年,帝崩。》(『晋書』「天文志・中」“月奄犯五緯”)

太安2年11月庚辰の天象記事のつぎに、3年正月乙卯の天象記事がある。この3年は太安3年にまちがいない。

ところが、太安は元年(302)12月から2年12月までしかない。太安3年正月は存在しない年月である。

そこで注釈の「校勘記」は太安3年正月を太安2年正月と変更している。ただし、そこを変更すると必然的にその前の太安2年11月は太安元年11月となる。

しかし、太安元年は12月からはじまるので、今度は暦に存在しない太安元年11月が生じることになる。

ここに引用した記事には変更してもしなくても存在しない年月がでてくる。これは正史とされた史書に存在しない年月が書かれている事例である。

ちなみに、『世界の名著 中国の科学』(1975・中央公論社)の藪内清氏らの和訳は変更に基づき、以下のとおりである。

 《晋の恵帝の太安元年十一月庚辰の日、歳星(木星)が月のまんなかに入った。占によれば、「その国では宰相が放逐される」と。
  十二月壬寅の日、太白が月を犯した。占によれば、「天下に兵乱がある」と。二年正月己卯の日、月が太白を犯した。占は青龍二年に同じである。
  永興元年七月、右(左の誤)衛将軍の陳シン(月+珍−王)らは、大軍を率い帝を奉じて成都王を討伐したが、皇帝の軍は大敗し、敵軍が天子の御車にまで迫った。
  その後二年して、帝は崩御された。》

三木太郎氏の著作に、『古鏡銘文集成』(1998・新人物往来社)がある。なかに「『漢簡』の年号・干支表記一覧」がある。

漢簡とは、竹や木の札に書かれた漢代の文書や記録をいう。BC102〜AD98の年号が書かれている。

そのなかに文献で確認できない年次、つまり暦にはない年次を記しているものが多くある。

たとえば、征和五年(征和は四年まで)、元鳳四年閏(この年に閏月はない)、始元七または十年(始元は六年まで)、
本始五年(本始は四年まで)、本始六年(本始は四年まで)、地節五年(地節は四年まで)、などなどである。

漢簡に元康四年四月己亥とあるが、四月には己亥がない。このように、ない干支が書かれているものはもっとある。

朝廷が変更した暦がどこか離れた土地でどの程度徹底されたかは不明である。

さらに、三木氏は「三角縁神獣鏡国産説を批判する」(『季刊邪馬台国 32号』(1987・梓書院)所収)で指摘する。

 《黄初三年までしかなかった(のに)呉の黄初四年の年号を記した対置式神獣鏡が、
  現在まで日本と中国で五面(うち一面は、呉の地域にあたる湖北省顎城出土)発見されている。》

黄初は、後漢の延康元年(220)10月に献帝から曹丕に帝位が禅譲され、曹丕によって改元された魏朝最初の元号である。

魏では黄初は七年まで続くが、呉では孫権によって、黄初三年(222)に改元がおこなわれ、黄武元年(222)となる。

この対置式神獣鏡の三面以上が同笵鏡であり、しかも、中国・呉の地域からも出土している。

呉の鏡でまちがいなければ、まるで、今回と同じケースである。このときは大して話題にもならなかったのだろうか。

王仲殊氏によると、北朝鮮に散在する中国人の古墳に使われている磚に「泰寧五年」(4年まで)、「咸和十年」(9年まで)、
「建元三年」(2年まで)「元興三年」(2年まで)と改元を知らず年号が一年延びて使われているという。

また、北朝鮮にある安岳三号墓(冬寿墓)の墓壁に、12年までしかないのに永和十三年と書かれた墨書の題記がある。

倭人伝によれば、景初二か三年に卑弥呼が魏へ使者を派遣している。その答礼に、景初三年の翌年、正始元年に魏の郡使が倭を訪れている。

倭にとって重要な年である。公式には「景初四年」は存在しない。

しかし、鏡に「景初四年」銘が現実にあり、他に類例が少なからずある以上、その存在を頭から否定することばかりではいかがなものであろう。

年号が変わったことを知らない土地で、または知らない人物によって作られたという説、
重要出来事の年を、後年記念に刻した説、などは可能性がありそうである。

あるいは改元は伝わっていても、新元号がわからず、旧元号を使ったかもしれない。

考古資料によって、文献の記述が訂正される場合もある。金石文資料にも文献史料と同様にもう少し注意を払うべきと私は思っている。


      挿図4:広峰・景初四年銘盤龍鏡。左上に景初四年が見える(ネット「悠々自適:物見遊山人」より)
      挿図5:黄初四年銘対置式神獣鏡 径13.1cm(ネット「東京国立博物館蔵・画像検索 黄初四年銘対置式神獣鏡」より)


          (2017.10.8 記。邪馬台国の会・千葉支部 第8回勉強会にて発表)


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