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館長の小論報第13号

館長の小論報 第13号

2021/10/10

   ☆第13号 「景初暦」の復元への道程 その1

「景初四年」問題で、私自身が古代中国の暦についての知識がなにもない事に思い知らされた。

太陰暦とは、十干十二支とは、景初暦とは、景初四年とは何なのかをきちんと知らなければ前へ進むことができない。

そこで、古代中国の暦について勉強するために、暦の歴史、種類、仕組みなどを調べてみた。


(1)太陽暦と太陰暦

太陽暦は、日を数えるのに太陽の運行を主としたもので、1年は地球が太陽の周りを一巡する時間をいう。これを1回帰年と呼ぶ。

太陽暦の現在の1年は、365日と約1/4の長さである。(365.2422日)

世界最古の太陽暦は、エジプトで発達した「シリウス暦」で1ヶ月は30日である。

1年は12ヶ月で360日となり、不足分は12月の後に余日(エバゴメン)5日を加えて1回帰年に近づくように調整している。

現在の太陽暦は大の月(31日)が7回、小の月(30日)が5回、ただし2月は28日で、1年を365日としている。不足分は4年に1度閏年に2月に1日加え調整する。

太陰暦は、月の満ち欠けにより日を数える。月の形は新月から上弦、満月、下弦というようにほぼ1ヶ月周期で変化する。

その月の公転(地球を回って戻る時間)=1ヶ月は約29日半である。(29.530589日)これを朔望月と呼ぶ。

太陰暦は大の月(30日)と小の月(29日)を交互に繰り返すのが原則である。30日×6=180日、29日×6=174日、1年は354日となる。(354.367068)

また、1朔望月のうちでも季節によって長短があり、それを調節するために大の月と小の月が毎年変わり、大の月を続けたりする(連大)。

純粋太陰暦といわれる「イスラム暦」では、宗教上の理由で太陽暦との差を調整しないので、月日と季節が少しづつずれていく。約33年間でまる1年も早くなる。


(2)太陰太陽暦

太陰暦では、太陽暦と比べると1年で10.8752日短い。そこで太陰暦を修正して地球の季節に合わせるために、太陽暦の1年の時間に合うように調整した暦が、太陰太陽暦である。

不足分は3年で1ヶ月強になるので、そのときに1年を13ヶ月にして不足分を補う。余分に入れる月を閏月という。閏月を入れる割合は19年に7回である。これを19年7閏法という。

古代中国では太陰太陽暦がもちいられ、それが日本に伝えられた。日本では明治5年まで太陰太陽暦が用いられた。

その太陰太陽暦を陰暦、旧暦とも呼び、現行の太陽暦を新暦とも呼ぶが、それは俗称で、正確な呼び名ではない。


(3)古代中国の暦

歴史上の中国の暦法は、太陰太陽暦であり、月の運行に則りながら太陽の運行とも合致することをめざしている。

中国では十干と十二支を組み合わせた六十干支を暦に用い、年、月、日をそれぞれ六十干支で表現する。

秦漢の「センギョク暦」(山+而+頁、王+頁)や漢の武帝が太初元年(BC104)に制定した「太初暦」以来、正しい暦を民に授けることは帝王の任務であり特権となる。

反面、暦法の制定が天子である象徴のために、新王朝を建てたときには新しい暦法を制定しなければならなくなった。

中国の諸王朝は次々に新しい暦法を制定し、およそ2000年のあいだに46の暦法が頒行されている。

改暦には天文や暦の理論の進展による場合もあるし、単に名称を変えただけのものもある。


(4)陰陽五行説

古代中国において宇宙の生成、物のしくみなどの考え方に陰陽五行説がある。

陰陽説は宇宙現象を陰と陽との働きによって説明する二元論、五行説は万物の根源を木火土金水の五元素よりなるとする考えである。

陰陽説と五行説が結びついたものが陰陽五行説で、天文、暦法、医学などに影響を与えている。

漢の劉キン(音+欠)による五行相生(そうしょう)説では、木が擦れて火を生み、火は灰となり土を生み、
土の中から金を生み、金に露がつき水を生み、水によって木が生きる、と説く。

五行には色があり、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒である。王朝もこの順に交代すると考える。

また、中国では王朝ごとに新年(年の始まり)を変えている。そのもとになった考えを「三正論」という。

三正とは、夏・殷・周王朝の正月をいう。夏王朝は寅の月、殷王朝は丑の月、周王朝は子の月を正月とする。

この三正を夏正、殷正、周正といい、その後の王朝はこれを繰り返すものとされた。漢王朝の武帝は夏正(建寅)を採用し、その後、ほとんど夏正が用いられた。


(5)景初暦

後漢の滅亡(220)後、魏・呉・蜀の三国が対立し、それぞれに個別の暦法を採用する。

漢を継ぐ蜀は後漢の四分暦をそのまま受け継ぐ(221)。魏の文帝も当初四分暦を採用(220)する。

呉は乾象暦を使用(223)し、それぞれ天命を受けたことを天下に表明する。

明帝が帝位に就く(227)と、太和に改元し、暦の名称のみ太和暦と呼ぶ。

青龍5年(237)正月に黄龍が見られたという。火徳の漢王朝より禅譲を受けた魏王朝は土徳(色は黄)であり、
明帝は景初に改元し、3月を孟夏の4月とし、殷正を採用する(12月を正月とする)。

太和暦を改暦して景初暦とする。つまり、青龍5年は2月で終り、翌月は景初元年4月になる。ここで1ヶ月消える。

太陰太陽暦では春が1月〜3月、夏が4月〜6月、秋が7月〜9月、冬が10月〜12月である。明帝の改暦は春3月を夏4月に季節も変えたことになる。

景初三年正月、明帝が死に、皇帝になった斉王芳(曹芳)は景初3年12月に改暦の詔勅を下し、12月の次に後12月を加える。これで消えた1ヶ月が戻る。

 《(景初三年)十二月、詔勅をくだした、「烈祖明皇帝は正月に天下を見捨てられ、臣下や子供たちはいつまでもそのご命日の哀しみを抱きつづけている。
  それゆえふたたび夏王朝の暦を使用せよ。先帝がとられた三統(夏・殷・周)の暦を循環させる方針にもとるとはいえ、これもやはり礼制を変更するに充分な理由である。
  また夏王朝の暦は暦法において、天の暦と合致している。そこで建寅の月を正始元年正月とし、建丑の月を後の十二月とせよ。」》(三少帝紀)

 《十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦礼制所由変改也。
  又夏正於数為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」

この改暦は、明帝の制定した丑月を正月とする殷正を止め、寅月を正月とする元の暦(夏正)に戻したことである。

ただし、月をずらしただけで景初暦の天体の運行予測は継続である。改暦といっても専門家以外には直接の影響はあまりなかったようである。


(6)景初暦の復原

ここでいう景初暦の復原とは、年号の景初年中にのみ使用された暦の復原である。

というのは暦法のひとつである景初暦は、晋王朝でも、宋王朝などでも採用され、泰始暦、永初暦などと改名され使われているからである。

『三国志』に書かれている景初暦を、前後を含めて記すと以下のようになる。

 青龍5年1月、2月(改元)
 景初元年4月、5月、6月、7月、8月、9月、10月、11月、12月
 景初2年1月、2月、3月、4月、5月、6月、
     7月、8月、9月、10月、11月、閏11月、12月
 景初3年1月、2月、3月、4月、5月、6月、
     7月、8月、9月、10月、11月、12月、後12月(改元)
 正始元年1月、2月、……

これが、公式の暦である。青龍5年2月までが太和暦で、景初元年4月から景初3年後12月までがここでいう景初暦である。

35ヶ月ある。正始元年正月からは元の太和暦にもどる。ただし、名称は引き続き景初暦と呼ばれている。

古代中国の暦が記す日が、西暦のいつにあたるかを知るための本がいくつかある。

  @『三正綜覧(補正新訂版)』(内務省地理局 編纂・1973・芸林舎)
  A『金印研究論文集成』(大谷光男 編著・1994・新人物往来社)
  B『三千五百年暦日天象(第二版)』(張培瑜・1997・大象出版社)
  C『二十史朔閏表(第4次印刷)』(陳垣・1999・中華書局)

四書における景初年間の記載が同じならば、まったく問題なく景初暦は復原されていることになる。ところが、四書の干支の記載は微妙に異なる。

@『三正綜覧』の景初元年4月1日戊辰は、A『金印研究論文集成』では4.1丁卯、B『三千五百年暦日天象』は5.1で丁卯、C『二十史朔閏表』は5.1戊辰と記す。

ところが翌月、@の5月1日丁酉は、Aは5.1丁酉、Bは6,1丁酉、Cは6.1丁酉と同じ干支になる。

途中いろいろあるが、正始元年1月1日になると四書がすべて月も干支も1.1辛亥で揃う。以降みな同じになる。

なぜこの様なことが起きるのか、これらの原因の詳細は『季刊邪馬台国 112号』(2012.1・梓書院)掲載の拙論「「景初暦」の復元」に譲るが、結論をいう。

四書の違いは、明帝の改暦通りに青龍5年3月はなく、景初3年末に後12月は行なわれたという立場からの復原と、
明帝の改暦は1ヶ月ずつのマイナスとプラスで、結果ゼロになり、改暦がなかった如く復原することによるものと思われる。

これは、一方が正しく、他方が誤りというものではない。

それぞれに根拠があり、ともに一長一短がある。

ただし私は、景初年間の出来事、記述には、明帝が改暦した景初暦による方を適切と思う。


      挿図1:十干十二支を組み合わせた六十干支表(ネット「新年特集2019年を「干支」で読み解く」より・一部改変)
      挿図2:中国の歴代暦法図(『こよみ』1999東京大学出版会より・一部分のみ)
      挿図3:景初元年、二年の月の朔日表(『二十史朔閏表』(左)と『三正綜覽』(右)より)
          『三正綜覽』では、青龍5年の欄は、景初元年となっているが、上欄外に三月を改めて、四月にすると書かれている。
          《魏用景初暦以十二月為歳首改三月為四月》
          『二十史朔閏表』にも同様のことが下の欄に書かれている。《魏三月改元景初、始用景初暦、以三月為四月、十二月為正月、》


          (2017.10.8 記。邪馬台国の会・千葉支部 第8回勉強会にて発表)


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