館長の小論報第12号
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館長の小論報 第12号

2021/10/03

   ☆第12号 私論 「景初四年」は存在した! は間違い 承前

『季刊邪馬台国』第108号(2011・梓書院)に掲載の入倉徳裕氏の論文、「『晋書』に「景初四年」は存在しない」 は正しい。

私の『晋書』の読みが、誤りであった。

入倉氏の指摘を掲載する。

 《(『晋書』天文志の)記事は、@観測された天象を起こった(年)順に列挙し、Aその天象の意味(占)と、Bその結果起こった事件を併記する形になっている。》

これを解りやすい文に例えると、@昭和62年10月に日食が起き、Aそれを占ったら天災が起きるという。B平成元年8月に中央アルプスで噴火があった、となる。

Bの平成元年8月の噴火の文の続きに、天象の月食が起きたと書かれていると、この文は@となる。10月に津波があり、家が流されたとなるとこの文はBとなる。

年号の後に、天象が書かれると@であり、年号の後に事件が書かれるとBになる。

私の引用した天文志の記事を少し前から見ると、入倉氏の指摘の通りとなる。

ただし、すべての文が@、A、Bとなっているわけではなく、@、Aで終わったり、@、@、Bなどの場合もある。

@青龍二年十月乙丑、月又犯鎭星。A占同上。@戊寅、月犯太白、A占曰「人君死,又為兵。」B景初元年七月、公孫文懿叛。B(景初)二年正月、遣宣帝討之。B(景初)三年正月、天子崩。

@(青龍)四年三月已巳、太白與月倶加景晝見、月犯太白。A占同上。

入倉氏にしたら、当たり前のことが、私はなぜ気が付かなかったのだろう。木を見て森を見ずということであろうか。恥ずかしい限りである。

このままでは、これからも同じ過ちを犯しそうなので、自己流の天文志の分析を試みた。

文章分割の基準を6個にした。

A元号・年・月、B干支、C天文の異変、D占曰「占いの内容」、E(元号・年・)月、F実際に起きた変異と細分した。

入倉氏の指摘のように変異のEの年月の後に干支が続かない。これも@とB、或いはAとE分別の基準になる。

問題の文章を記号に書くとこうなる。

A+B+C+D、(青龍二年十月)(乙丑)(月又犯填星)(占同上)
B+C+D、          (戊寅)(月犯太白)(占曰:人君死、又為兵。)
E+F、                                  (景初元年七月)(公孫文懿叛。)
E+F、                                  (二年正月)(遣宣帝討之。)
E+F、                                  (三年正月)(天子崩。)
A+B+C+D。(四年三月)(已巳)(太白與月倶加景晝見、月犯太白)(占同上。)


このA〜Fを基準に天文志の「史傳事驗」全体を調べてみると、いろいろな例外があることが、分かった。

(1)「天變」のなかに、天象の起こった順でない事例が『中』の「天變」のなかにある。
   太安二年(303)→升平五年(361)→太興二年(319)→隆安5年(401)。
   升平五年(361)と太興二年(319)の順が逆になっている。
   原本には西暦の記入がないので、これは、写本から版本を作る時に単純に写し間違えたのかもしれない。

(2)天象記事の年月には干支が付くというが、ない事例もある。『中』の「天變」にある。
   《惠帝元康二年二月、天西北大裂。案劉向説:「天裂、陽不足,地動,陰有餘」。》
   《恵帝元康2年2月、天北西大割れ。案じた劉向 は、「空が割れ、陽が不足し、地面が動き、陰が残っている」と説く。》
   ただし、天裂が天象か、事件かの判断は微妙である。

(3)事件記事の年月の後には干支が付かない様子だが付く事例もある。
   《(元興)是年二月丙辰、劉裕殺桓修等。三月己未、破走桓玄、遣軍西討…。》
   天象記事か事件記事かを区別するには干支の有無より、記事の内容で判断した方がよさそうである。


少量の例外を根拠に、原則の基準を否定するのはおかしいと思うが、例外もあることを頭に入れて読む方がいいとは考える。

では、私が読み間違えた「景初四年」が成立しないという、別の方法での検証は、ないのであろうか。

そこで、「四年」に出てくる干支(日にち)はどうであろうか。

青龍四年(236)と景初四年(240)とどちらにふさわしいか調べてみる。

「四年」に出てくる月・干支は、「中」に三月已巳、「下」に閏正月己巳、三月癸卯、三月己巳、五月壬寅、七月甲寅、計6個である。

「中」に三月已巳と「下」の三月己巳は同じなので5種類となる。

古代中国の暦にある月・日の存在を調べる文献として『三正綜覧』(内務省地理局 編纂・1973・藝林舎)を使用する。

そこにはその月の朔日(1日)の干支が書かれている。閏正月は乙巳、三月は甲辰、五月は癸卯、七月は壬寅である。

先ず青龍四年を調べる。 閏正月を見ると己巳は25日に存在する、三月には癸卯はない、己巳は26日である、五月には壬寅はない、七月甲寅は13日である。

この結果を便宜的に表現すれば、3勝2敗である。

次に景初四年を調べる。景初四年は景初三年に続く年なので、当然、正始元年と同じ暦日になる。調べるときは正始元年(=景初四年)を調べる。

景初三年には後十二月があるが、正始元年に閏正月はない。月の朔日の干支を見ると三月は庚戌、五月は己酉、七月は戊申である。

正始元年の三月には癸卯はない、己巳は20日である、五月に壬寅はない、七月の甲寅は7日である。

こちらは2勝3敗となる。

青龍の方がわずかに有利ともいえそうであるが、五十歩百歩で干支からは決められないとわかる。

調べる前は、青龍の干支がすべて存在し、正始には偶然ひとつあった、ぐらいを想像していたが残念である。

念のため、『二十史朔閏表』(陳垣・1962・中華書局出版)でも調べてみたが、結果は同じである。 『晋書』記述は、そんなにいいかげんなのであろうか。


『晋書』の天文志の読み方は入倉氏にご指摘いただいたように、四年は青龍四年読むことが文章の流れとして自然であり、理にかなっている。

ご指導いただいた入倉徳裕氏に再度お礼申し上げる。

『晋書』に「景初四年」は存在しない、お陰様で古代中国の暦に関する勉強する機会を得て、感謝申し上げる。


      挿図:『三正綜覧』内の「青龍4年」と「正始元年」の各月の朔日干支の一部。(右が「青龍4年」、左が「正始元年」、□が対象月)


後日情報:

『週刊新潮』2011.6.16号に驚きの記事が出た。

”「邪馬台国」論争にケリをつける!? 「卑弥呼の鏡」の新証拠! 「景初4年」は実在した”
  《聖徳大学の山口博名誉教授が発見した中国の古文書に意外な事実が記されていたのだ。》

  《「唐の時代に編纂された『晋書』という歴史書があります。このなかの巻12「天文志」に〈景初4年〉という年号が出てくる。
   天文志とは天体観測の記録などで日時に関してはかなり正確をきしているはず。当時〈景初4年〉が当たり前のようにつかわれていた証拠。
   同じように清時代に編纂された『佩文韻府』という書にも〈景初4年〉という年号が出てきます。》

あ、アッ。山口先生が、入倉氏の論文を読んでいれば、こんなことにならなかったのに、残念だ。

『佩文韻府』については、入倉氏が『季刊邪馬台国』第111号(2011.10)に論文を書いている。

『佩文韻府』のおける引用も勘違いである。

これ以上、誤説が広がらないことを願う。

名誉教授クラスの人でも勘違いを起すのだから、私が読み間違えてもしょうがないかなあ。学問は基本が大事と身に染みる。

                                 (2011.3.23記 未発表。後日情報は後に追記。)


                               (付録)

今回、問題となった『晋書』の「天文志」中・下の該当文章を掲載して、正しい読み方を表示する。

(天文志・中)

@青龍二年十月乙丑,月又犯填星。       A占同上。           Bなし
@戊寅,月犯太白,              A占曰:「人君死,又為兵。」  B景初元年七月,公孫文懿叛。
                                       B二年正月,遣宣帝討之。
                                       B三年正月,天子崩。
@四年三月已巳,太白與月倶加景晝見,月犯太白。A占同上。           Bなし

(天文志・下)

@青龍三年三月辛卯,月犯輿鬼。輿鬼主斬殺。  A占曰:「人多病,國有憂。」  Bなし
                       A又曰:「大臣憂。」      B是年夏及冬,大疫。
 (中略)
@七月己丑,填星犯東井距星。         A占曰:「填星入井,大人憂。」行近距,為行陰。
                       A其占曰:「大水,五穀不成。」 B景初元年夏,大水,傷五穀。
@其年十月壬申,太白晝見,在尾,歴二百餘日,恒晝見。A占曰:「尾為燕,有兵。」Bなし
@十二月戊辰,月犯鉤ツ。           A占曰:「王者憂。」      Bなし
@四年閏正月己巳,填星犯井鉞。
@三月癸卯,填星犯東井。(中略)
@五月壬寅,太白犯畢左股第一星。       A占曰:「畢為邊兵,又主刑罰。」B九月,涼州塞外胡阿畢師使侵犯諸國,西域校尉張就討之,斬首捕虜萬計。
@其年七月甲寅,太白犯軒轅大星。       A占曰:「女主憂。」      B景初元年,皇后毛氏崩。


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