館長の小論報第11号
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館長の小論報 第11号

2021/09/26

   ☆第11号 私論「景初四年」は存在した! は間違い 

事件は突然やって来る。

東京・神保町の古本屋街を彷徨い、ある古書店の本棚を見ていたら、目に止った一冊の本があった。

小林惠子・井沢元彦 共著の『「記紀」史学への挑戦状』(1998・現代思想社)である。

パラパラとページをめくっていたら、景初四年についての記述があった。

景初四年とは記録上、存在しない年であるが、景初四年銘盤龍鏡が発掘されたため、その存在が問題になっている年である。

小林・井沢、両氏の対談のなかでの小林氏の発言である。

 《実際に『晋書』(志天文・中)を見てください。景初四年というのはあるんですよ》

早速、彼女の指摘する箇所を探す。

景初四年とは書かれていないが、景初二年の後に四年とあるので、間違いなく『晋書』には景初四年と書かれていることになる。

これは、驚きである。

小林氏の発言をきっかけにして、私は「「景初4年」は存在した!」を書き、梓書院に投稿して、『季刊邪馬台国』第104号に掲載された。

その論文の要旨を以下に掲載する。 


『晋書』十二、志第二巻、天文中をみると「景初四年」は確かにでてくる。

 〈景初元年(237)七月公孫文懿(公孫淵)が叛した。二年(238)正月、(明帝は)宣帝(司馬懿)を遣わして、これを討った。
  三年(239)正月、天子(明帝)は崩じた。四年(240)三月己巳(20日)に太白(金星)と月は、光を加え、昼見えた。
  月が太白を犯した(蝕した)。それを占った。〉

小林氏は触れていないが、景初四年は『晋書』十三、志第三巻、天文下にも出てくる。

 〈景初元年(237)夏、大水あり。五穀の損害があった。その年の十月壬申の日に、太白が、昼見えて尾宿にあった。
  二百余日をへても、つねに昼見えた。占っていう。「尾宿は、燕をさす。兵(いくさ)がある。」
  十二月戊辰の日に月が鉤ツ(こうけん)を犯した。占っていう。「王者の憂いがある。」
  四年(240)閏正月己巳の日に鎭星(土星)が井鉞を犯した。
  (以下、三月、五月、の記事が続き、)九月、涼州の塞外の胡族の阿畢師使が諸国を侵略した。>

この記事によると、、少なくとも「景初四年」は九月までは使われていることになる。

中国の正史『晋書』にあり、鏡の銘文という金石文にもあれば、まず「景初四年」は使われていたと考えるのが穏当である。

だが、改元も事実である。西暦二四〇年は公式には「正始元年」であるので、「景初四年」の存在は一部にそれを使う者がいたということであろうか。

西野凡夫はいう。

 〈三少帝の時代は司馬一族を中心に豪族たちの葛藤があり、いずれもが明帝の後嗣となるための権力争いを演じていたのである。
  このような情勢にあって斉王芳の定めた正始年号を受け入れず、明帝が建元した景初年号を継続する一族がいても不思議ではない。
  景初四年銘鏡が実在するという事実に対して、景初四年という年が存在した可能性を考えることが、最も素直な学究の方法である。〉

『晋書』の記事からは、西野説は無理のない解釈と考えられる。

詳しい事情は不明であるが、一部にしろ「景初四年」は存在し、使用されたことはまちがいない事実である。

『晋書』の宣帝紀には、正始元年(240)に東倭が朝貢したあり、このことは、景初四年(240)は倭の使者が遣わされた年ということになる。

よって、『魏志』に「景初四年」がでてこなくても、当時使用されていた「景初四年」は記念されるべき年であり、鏡に銘記されても妥当なことと言える。


小林惠子氏の発言により、私は、「景初四年」は存在したと書き上げた。

ところがである、一年後に『季刊邪馬台国』第108号に、入倉徳裕氏からの批判文が掲載された。

『晋書』に「景初四年」は存在しない である。

入倉氏の論文を読んで、私は愕然とした。(次号へ続く)

                                (『季刊邪馬台国』104号に掲載された文を引用し、新記述の文)


    挿図上:小林惠子・井沢元彦 共著『「記紀」史学への挑戦状』第104号(1998・現代思想社)の表紙
    挿図下:『季刊邪馬台国』第104号(2010・梓書院)の表紙


                                

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