大塚遺跡の報告書のなかで、武井氏が書いている。≪全国で環濠ないしV字溝が発見された遺跡で土塁が発見されたという報告はほとんどないのが実情である。
東京都世田谷区鎌ヶ谷遺跡でつぎのような報告がある。
ここで発見されたV字溝の「覆土は自然堆積の様相を呈するが、覆土中位はロームが大量に混入しており、その多くはV字溝の弧の内側、すなわち集落の存在すると考えられる側から流れ込んでいる。(略)
1号溝状遺跡を掘った時の土が土塁として内側に積み上げられていたのが、崩れて流入した可能性が強い。(寺畑滋夫)」という。≫濠の内側にも、同様に掘り出した土の堆積が想定される例があるという。
逆茂木で有名な愛知県の朝日遺跡の復元模型や復元断面図をみると環濠の内側に土塁がみえる。
図の左側がムラ側である。
前号で触れた吉野ヶ里遺跡の土塁については、七田忠昭氏が『吉野ヶ里遺跡』(同成社・2005)に書いている。≪溝を埋めている土の土層断面調査によると、溝をつくるときに掘り上げたと考えられるローム質の土が、集落の外と考えられる低い位置からも多く流れ込んでいることがわかり、溝の外側を土塁状の高まりで囲んでいたらしいことも判明した。≫
このほかに、原口正三氏の「濠と土塁」(『弥生文化の研究 7』雄山閣・1986)に土塁に関するいくつか記載がある。
葛川遺跡(福岡県)……濠の外肩に土塁を築いたらしい
亀山遺跡(広島県)……掘鑿土は濠の内側に積み上げ、土塁状のものをつくってあったと推定
扇谷遺跡(京都府)……(環濠の)一部では外肩に土を盛りあげて規模を大きくしてある
朝日遺跡(愛知県)……内濠と外濠の間に土塁状の遺構が認められている
無責任な言い方をすると土塁は濠の内側の場合も、外側の場合も両方ありということであろうか。
防御施設という観点からすれば、同程度の効果があるとは思えない。
いろいろ調べてこの結果ではどうにも納得とはいかない。
ちょっと視点をかえて考えてみる。集落の範囲を決めて、環濠を掘った場合、土塁を濠の外側に築いたとき、メリットがあるのだろうか?
佐賀県の千塔山遺跡では濠と住居跡との距りが近いので、もし土塁を設けるとすれば外側と推定されているという。
言い換えると、濠の内側に土塁を造ると濠の近くに住居は建てられなくなる。
土塁を築いた分、集落の面積が狭くなるということである。
いま、長径200m、短径100mの楕円形を呈する集落の面積を計算すると、15,700uとなる。(100×50×3.14)
その内側に幅5mの土塁を築くとその内側の面積は13,424uとなる。(95×45×3.14)
15%弱の減である。平均的な住居址面積を25uとすれば、91軒分の面積に該当する。
これを多いと感じるか、たいしたことがないと感じるかは、基準がない。
もし、森を切り開いて、環濠集落を造営するとしたら、土塁を内側に造ることはかなりの労働負担になるだろう。
限られた場所に環濠集落を造る場合、土塁を外側に設けることは、それなりのメリットがあることがわかる。
もうひとつ、本当に土塁はあったのだろうか?
濠を掘った時の土が積まれているところが確認されているので、それによって土塁の存在を想定しているが、環濠の周囲すべての箇所で検出されているわけではない。
原口氏は、≪環濠集落の門戸を注意してきたけれども、確たる決め手になるものはない。≫といっている。
想像の域を脱しないが、出入り口は必ずあるのだから排土の積み上げ部分に門戸ような施設を考えることは案外的外れでないかもしれない。
弥生時代は農耕社会が成熟する過程で戦いが起きたといわれている。佐原眞氏が編集する『倭國亂る』(国立歴史民俗博物館・1996)に戦いに関する考古学での証拠が6つ書かれている。
(1)守りの村――防壁・柵・壕などで周りをかこんだ村
(2)武器の存在――人を傷つけ殺すことを目的とした武器の登場
(3)殺傷された人の遺体――武器を使って数多くの人を殺傷した考古学の証拠の大多数が数千年前以来のもの
(4)武器をそなえた墓――武器は死者を守るためか、あの世でも戦うためか
(5)祭りの道具になった武器――武力で敵を倒す世になると、武器そのものが祭りの道具となり、神になる
(6)戦いの場面を表わした造形品――造形品は戦いのあったことを具体的に明らかにする
私もこれらが戦いの存在を証明する証拠の一つひとつであると思う。
しかし、これらの証拠はお互いに補完しあって、戦いのあったことを証明しているのであり、一つあればそれだけで戦いがあったと思うのは早計ではないだろうか。
大塚遺跡では(1)の環濠集落しかない。
あえて加えれば、住居址内から出土した14cm弱の鉄剣形磨製石剣がある。
調査員は、磨製石剣を住居で生活がおこなわれていた時に使われていた道具と報告している。
環濠集落は武器や殺傷された人骨とあいまって、戦いの証明のひとつになるが、環濠があれば、それだけで充分条件とはいえないと思う。
ほかの可能性も考えるべきである。
環濠が発見されはじめたころは、環濠を造った理由として、集落の境界、野生獣の侵入防止、排水溝、外敵防禦などがいろいろ考えられていた。
ところが、近年では外敵の防御以外は無視されているようである。
吉野ヶ里遺跡の復元が思考を固定させたのかもしれない。
確固たる土塁を発掘した事例がないものか調べてみた。「山口県光市岡原遺跡の発掘調査」(小野忠煕・『私たちの考古学』1-1に収録)にある。
台地上の集落を外敵から防御するように土塁が存在するという。
≪台地面の北のくびれ部に近く幅約五米高さ一・五米許りの土塁状の土堤が略々東西に直線状に横はつて台地面を南北に区分しており、(略)
塁状の遺構は調査の結果、防御乃至は集落の限界を画する垣としての性格の強いことがわかり、位置や地貌と相俟って、この遺跡は対人的防禦の性格をもつ集落址とみるべきではないかと考えるに至った。≫本論文は中間速報であり、遺構図の掲載がない。
濠についての記述が前記の「濠と土塁」にある。
≪この土塁の東端から南約15mのところから段丘の東縁沿いに約135mにわたってV字濠(幅2.2m、深さ約1.8m)がある。
この濠はさらに南から西へと段丘縁辺をとり巻くらしい。
土塁と環濠に囲まれた平坦地で9基の竪穴住居址や高床住居の柱穴約220個が検出された。≫岡原遺跡では北辺を土塁で、他三辺を濠で集落を囲んでいるらしい。
これでは土塁が濠の内か、外かには参考にならない。特殊な事例である。
土塁の発見がもう一例ある。時代がかなり新しくなるが青森県の高屋敷館遺跡である。
高屋敷館遺跡は、土塁と環濠に囲まれた竪穴住居址・90軒以上、鍛冶遺構・2棟、掘立柱建物・1棟、土坑・40基、井戸2基などからなる集落址である。平安時代(10C後半〜11C)の大規模な環濠集落で、しっかりと土塁・環濠が調査されている。
畠山昇・太田原慶子、両氏が『季刊考古学 第31号』に報告している。
≪土塁は東側を流れる大釈迦川に向かい半円状に構築されている。
土塁の基底部2.1m、高さ約1m、全長188mである。
濠は土塁の内側に構築されており、幅5.8m、深さ3.5m、全長約214mである。(略)
濠の底部から土塁頂部までの深さはおよそ5mの大規模なものである。≫≪一般的な城館などとは異なって環濠外側に土塁が築かれていることに大きな特徴がある。
とくに集落を囲む環濠は外部の人間を隔絶するような大規模なものである。≫高屋敷館遺跡では、濠の外側に土塁が築かれている。
報告者は、文献史料の乏しい蝦夷に係る遺跡と考えているようである。
これだけしっかりとした土塁が濠の外側にあるならば、私が疑問に思うようなことはなく、防御施設として充分役に立つのであろう。
濠の外側に土塁があってムラを守れるのかという私の疑問が杞憂に終わって、これにて一件落着である。
しかし、力でねじ伏せられてようで、スッキリとはしていない。(とりあえず了)
(追 記)この高屋敷館遺跡をネットで調べていたときに、岡本孝之氏の「外土塁環濠集落の性格」と出合った。
表題を見たとき、私がいままで調べたことがこの論文にたぶん全部まとめられているのだろうと感じた。
ところが、ちがった。
氏は、外土塁は防御としてはふつうでなく、外部からの侵入を防ぐためではなく、これは内部の人間を閉じ込めた施設である、という。
すなわち、外土塁環濠集落は捕虜収容所、あるいは新外来系弥生人による在地系弥生人再教育機関としての性格もある施設である、となる。
発送の逆転でなかなか興味深いが、吉野ヶ里遺跡が捕虜収容所かいわれると賛成できない。
やはり、大環濠集落はその地域の拠点的存在である。それが収容所とは考えられない。
岡本氏の論文「外土塁環濠集落の性格」はネットで見られる。興味のある方はどうぞ。
挿図 上:朝日遺跡・環濠の復元断面図(ネット「朝日遺跡インターネット博物館」より)写真 上左:高屋敷館遺跡全景・西から(ネット「津軽新報ニュース」より)
写真 上右:高屋敷館遺跡全体実測図(『季刊考古学 第54号』雄山閣・1996より)
写真 中:高屋敷館遺跡・土塁と濠(『季刊考古学 第54号』雄山閣・1996より)
写真 下:高屋敷館遺跡・環濠の断面(『季刊考古学 第54号』雄山閣・1996より)
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