横浜にある環濠集落・大塚遺跡を見学した。そこにはムラを囲む環濠と土塁が復元されている。
土塁の上には先を尖らせた丸太が並べられ、柵が築かれている。
魏志倭人伝の≪城柵、厳かに設け≫の一節を連想させる。
復元されている環濠と土塁の関係をみると環濠の外側に土塁がある。
ムラ側(内側)→環濠→土塁・柵→外側となる。
環濠と土塁は外敵防ぐための施設といわれているが、この配置で防御に役立つのであろうか。
江戸城は水をたたえた堀の内側に石垣・楼観が築かれて、その中に城がある。
大宰府を守るために七世紀ころに築かれたという水城(みずき)も堀と土塁から構成されている。
大宰府側に土塁があり、その外に堀がある。堀のはるか先が想定する外敵が来る博多湾となる。
環濠集落と時代や規模は異なるが、防御施設としては、ともに堀が外側にある。
外敵が大塚遺跡を攻める場合、土塁が外側にあるので外敵は容易に土塁まで達することができる。
そのうえ集落側からの攻撃に対し、土塁と柵が敵にとって有効な防御の壁となる。
これでは敵に塩を送るどころではない。自滅である。
内側に土塁、外側に濠(堀)ならば、敵が土塁に達するには濠を越えなければならない。
敵は濠に入ると、濠の深さと土塁・柵の高さが攻撃の邪魔になる。
これならば環濠は防御施設といえる。
大塚遺跡だけの特殊事情かというと、佐賀の吉野ヶ里遺跡でも土塁が外側、濠が内側になっている。不思議だ。
遺跡の発掘調査では、濠の跡は検出できても、土塁の跡は確認しにくいという。
大塚遺跡ではなにを根拠に濠の外側に土塁を想定したのであろうか。
大塚遺跡の発掘調査報告書をみる。
≪大塚遺跡の環濠は、集落のまわりを途切れることなく全周している。(略)
我々はこれを新旧合わせて全掘し、掘削土の行方についても濠内の土層の検討と一部でその残存を確認したことから、それが濠の外縁に積まれたものと考えるに至った。(小宮恒雄)≫
≪環濠を埋めている土の中位に集落の外側からローム粒とローム・ブロックを多く含んでいる黄褐色土層がみられる。
発掘調査をおこなっている時から、これは外側に排土してきづかれた土塁が環濠の埋没過程にある際に再堆積したものと考えられていたものである。
また、遺跡の北部と環濠が繭形にくびれる部分の北東部付近の環濠の外側に黄褐色土の堆積が確認されている。
このことは明らかに環濠を掘る際にローム土を集落の外側に排土したことを示しているといえる。
これをもって土塁がきづかれたとするには躊躇されるが、広い意味で土塁がきづかれていたととらえてよいであろうか。
いずれにしても、考古学的な証拠を残しにくい簡易な施設が設けられた可能性はあると考えられる。(武井則道)≫ともに大塚遺跡調査団員が『大塚遺跡 T』(横浜市埋蔵文化財センター・1991)で報告している。
両氏は濠の掘削によって生じた黄褐色土が、外側から環濠内へ流入しているので、濠の外側に土の堆積、すなわち土塁があったと判断したという。
報告書にある環濠の土層断面の写真で土の流入方向を見てみる。
5は遺跡の南西部に存在する濠の南東壁面の土層断面を北西方向から見た写真である。
6は遺跡の北東部に存在する濠の南東壁面の土層断面を北西方向から見た写真である
南東壁面を南東方向から見ることはできるが、土壁に幅があるため南東壁を北西側から見ることは、現実には不可能と思える。
掲載写真は南東方向から撮った写真を左右反転したということであろうか。
報告書に同じ場所の断面図が掲載されている。写真とは左右が逆のように見える。
ちょっとわかりにくいが、図に従えば写真5は右側がムラ側で、6は左側がムラ側となる。
5では外側(左)から先に土が流れこんでいるように見える。
堆積土層の一番下は左から右へ流れている。
その後の流入は、左右同量程度に思える。
6ではしばらくの間、外側(右)から土の流れこみがあり、1/3ほど濠の右側が埋まった後に、左右から土の流入があったように思える。
全体では右側からの土の流入が多い。
報告者の記述どおりである。
次に、問題の濠を掘ったときに出たというローム粒とローム・ブロックを多く含んでいる黄褐色土層をみる。
該当箇所の土層断面図をみるとローム粒とローム・ブロックを多く含んでいる黄褐色土層(23層)は濠の外側にある。土層の厚さは30〜40cmほどである。堆積の幅は3m以上ある。(図中のスケールは4m)
この堆積土を土塁とするならば、土塁は環濠の外側にあったことになる。
しかしこの堆積土を、ほんとうに土塁と断定していいものであろうか、疑問が湧く。
報告者も≪これをもって土塁がきづかれたとするには躊躇されるが≫と即断をさけている。
それが遺跡公園の土塁の説明板には何も書かれずに、復元されている。
もう少し、検討・解説が必要ではないだろうか。
土塁の位置については、両氏と別の見解もある。
調査団長の岡本勇氏は「発掘 大塚遺跡」(『日本歴史展望1 埋もれた邪馬台国の謎』旺文社・1981)に書いている。
≪濠を埋めている土の堆積状態をみると、濠を掘った土は内側へ積みあげたりしたことがわかる。
これから考えると、濠の内側には土塁があったものと思われる。
濠と土塁が存在するということは、それが防御の施設であったことをしめすものである。≫土層断面の写真8にも説明がある。
≪環濠の断面 濠を埋めている土の堆積状態を観察すると、濠の内側から大量の土が流れ込んでいる。
掘った土は、濠の内側に積み上げて、一種の土塁を築いていたわけである。
なお、環濠は新旧2本あったことが知られている。≫ただし、こちらは正式な調査報告書がでる前の岡本氏の私見であるといえるかもしれない。
写真には、左右どちらがムラ側かは書かれていない。
写真の左側に新環濠の底部と土層断面の一部がみえる。
報告書に掲載されている土層断面図で新旧の濠が重複している濠を探すと、遺跡の北西部にある環濠に似寄りがある。
この土層断面図はローム・ブロックを多く含む黄褐色土層排土がみられる場所で、前掲の図7の中央部分がそれである。
この場合、新環濠は旧環濠の内側に築かれているので、左側がムラ側で、右側が外側となる。
土層状態から見ると、まず左側(ムラ側)から土の流入があり、その後、右側から大量の流入があるようにみえる。
岡本氏は、掘った土は壕の内側に積み上げてと記述しているが、掘った土と思われる黄褐色土層は壕の外側にある。
氏は写真による内側・外側左右を勘違いされたのだろうか。
大塚遺跡の報告書をもとに、いろいろ調べてみると、土塁は外側にあった可能性が高いと思われる。となると、土塁が外側で防御の役に立つのかという最初の疑問が解決されない。
土塁の位置は外側でいいのだろうか。まだ釈然としない。(続く)
写真 1:大塚遺跡の復元された環濠と土塁・柵。左側がムラ(ネット「倭人の起源」より)写真 2:吉野ヶ里遺跡の復元後の環濠の出入り口。手前がムラ(『吉野ヶ里遺跡』同成社・2005 より)
写真 3:環濠の断面・大塚遺跡(『神奈川県の遺跡』有隣堂・1990より)
写真 4:環濠の濠底から集落の内側を臨む(『大塚遺跡 T』横浜市埋蔵文化財センター・1991より)
写真 5:環濠(南東部)の土層断面(『大塚遺跡 T』横浜市埋蔵文化財センター・1991より)
写真 6:環濠(北西部)の土層断面(『大塚遺跡 T』横浜市埋蔵文化財センター・1991より)
挿図 7:環濠 36‐72〜76グリッド北西壁土層断面(『大塚遺跡 T』横浜市埋蔵文化財センター・1991より)
写真 8:環濠の断面(『日本歴史展望 第1巻 埋もれた邪馬台国の謎』旺文社・1981より)
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