姉崎二子塚古墳のつぎは上総国分寺である。日本への仏教伝来は、その出典より538年と552年があるが、6世紀中葉には伝来していたといえる。
その、およそ200年後の天平13年(741)に聖武天皇の詔(みことのり)によって、全国60余国に国分寺が建設されている。
上総国分寺は調査された瓦の年代から8世紀前半に建立とみられ、全国でもはやい時期に完成されたと思われる。
南大門・中門・金堂・講堂が南北に並び、回廊内の前庭には、高さが63mを超える七重塔がある。
都の寺院にもひけをとらない壮大な規模を誇る。
国分寺跡は整備はされているが、いまは、西門の基壇と塔の礎石があるだけで、とても寂しい。
暑い日ざしが、芭蕉の句を思い出させる。
夏草や 兵どもが 夢の跡
現代の真言宗豊山派の国分寺の文化財に、薬師堂、将門塔(宝篋印塔)、仁王門がある。
いずれも、市原市の指定文化財である。
国分寺から200mほど南に神門(ごうど)5号墳がある。
寺沢薫氏の説く、いわゆる纏向型前方後円墳である。
全長:後円部:前方部の比率が3:2:1である。
5号墳の報告されている数値で計算すると、3:2.2:0.8である。
少し前方部が短いが、許容範囲なのであろう。
奈良県桜井市には、ホケノ山古墳、石塚古墳、矢塚古墳などの纏向型前方後円墳がある。
この千葉県市原市にある神門5号墳は、それらの古墳と同時期の古墳という。
そして、箸墓古墳よりも古い古墳ということになる。
事実、5号墳からは庄内式併行の弥生後期の土器が出土しているという。
ただし、ホケノ山古墳からは布留式の小型丸底土器が出ている。
神門5号墳の出土土器の中にも小型丸底土器らしい土器の実測図がみられる。
神門4号墳・3号墳から手焙形土器という異形の土器が出土している。
滋賀県が発祥とされるこの土器は、弥生時代後期から古墳時代前期まで存続しているという。
古墳に副葬されているところをみると、葬送儀礼のときに用いられたことが想像される。
神門古墳出土の手焙形土器か時期はわからないが、古墳前期であっても不思議はない。
古墳の比率をもって、ひと括りに同時期としていいものかどうか、私にはよくわからない。
纏向型前方後円墳グループを歴博の炭素14を根拠に、それだけで3世紀前半とするのはいかがなものだろうか。
纏向型前方後円墳のつぎにくる箸墓古墳からは従来5世紀といわれている木製の輪鐙が出ている。
箸墓古墳は3世紀という前提で、輪鐙の時期を古く持っていくのもどうしたもんだろう。
どうも、古墳の出現を古く、古く考えている人が自説に都合のいい資料を声高に主張しているように思えてくる。
神門5号墳の後円部の高さは傾斜地にあるため5.1〜6.9mという。
立派な墳丘墓である。
弥生時代に一般的な方形周溝墓とは規模が違う。
≪神門古墳群のように在来の方形周溝墓の伝統からはずれた「古墳」の出現は、
従来の社会秩序そのものがくずれさったことを教えています。
房総の弥生時代のおわりはそこにもとめられるかと思われます。≫『房総の古代史をさぐる』にある小高春雄氏の文章である。
まったく、その通りと思う。あとはその暦年代がいつか、ということになる。
(つづく)
写真 1:上総国分寺の西門跡・左奥のバスが乗車バス(館長撮影)写真 2:上総国分寺の七重塔復元図(パンフレット「国指定史跡 上総国分寺跡」より)
写真 3:上総国分寺の伽藍配置図(パンフレット「国指定史跡 上総国分寺跡」より)
写真 4:神門5号墳・左側が後円部、右側に前方部の一部(館長撮影)
写真 5:神門5号墳出土の小形丸底土器の実測図(『千葉県の歴史』通史編 原始・古代T(県史1)より)
写真 6:神門3号墳出土の手焙形土器の実測図(『千葉県の歴史』通史編 原始・古代T(県史1)より)
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