館長だより 第72号
館長だより 第72号

館長のおもいつき(17)

2015/04/26

   ☆ 「弩」について (6)考古遺物 その4

 前号では、坂出市角山東麓採集の三翼鏃の写真がなかった。

 ネットで『讃岐青銅器図録』(1983・瀬戸内海歴史民俗資料館)を見つけたので、写真掲載が可能になった。

 求めよさらば与えられん、ということでうれしい。

 図録にある「弥生時代青銅器関係資料出土地地名表」内の本銅鏃の箇所も掲載する。

 [伝 坂出市角山東麓 銅鏃 1点 現長4.2cm 重9.3g 坂出市立郷土資料館所蔵]


 岡山県で両翼鏃が出土していたのを見落としていたので追加する。

 (14)岡山県岡山市・南方(みなみかた)遺跡

 南方遺跡は、吉備地方を代表する弥生時代中期中心の拠点集落遺跡である。

 遺跡からは、九州や近畿地方など遠隔地の土器が出土しており、瀬戸内海を通じた交易の拠点的な集落と考えられている。

 遺構としては、住居跡(弥生前期末〜中期中葉)、掘立柱建物跡、用水路、大溝などがある。

 出土した銅鏃の説明は「南方遺跡発掘調査現地説明会資料」(H25.2・岡山市教育委員会)による。

 ≪弥生時代中期中葉の大溝(SD1144) からは青銅製の鏃(矢尻) が出土しました。
  非常に精巧で保存状態も良いものです。
  剣の切っ先のような形をしており、中央に細いなかご(茎)、先端にむけて溝(樋) があり、小さな孔があいています。
  これは双翼式とよばれる型式の銅鏃で中国中原地域の戦国時代前半(紀元前5〜4世紀頃) のものとみられます。
  この型式の矢はもとは戦車戦用の矢でしたが、このころには儀式用となっていると言われています。
  出土した大溝へは、なにか祭祀に伴って投棄されたものと思われます。
  弥生時代中期中葉はおおよそ紀元前2世紀頃と見られますので、作られてから2百年ちかく経っているようです。
  伝来した経緯や経路はわかりませんが、宝物として大切にされてきたのでしょう。≫

 双翼鏃とは両翼鏃のことである。研究者によって呼び方が異なる。

 ≪長さ37.0mm、最大幅14.4mm、最大厚2.4mm、重量3.69g≫

 これで、中国・四国地方は6遺跡6点以上の発見となる。


 残りの地方をみると、3遺跡6点以上の発見がある。

 (15)福井県坂井市内発見

 『古文化談叢』第27集(1992・九州古文化研究会)に本鏃に関する記事がある。

 ≪福井県坂井郡内と鳥取県羽合町長江から三角鏃の出土例が報じられているが、未報告であり詳細は不明である。≫

 これを手がかりに探したところ、『広報えちぜん』第105号(2013.10・越前町役場)誌上に、企画展に本発見の三角鏃が展示されたことが書かれている。

 平成25年度織田文化歴史館企画展覧会「海は語る」への誘い にある。

 ≪中国からやって来た三翼鏃と三角鏃 紀元前3世紀
  坂井市で出土したと伝えられる青銅製の鏃は、中国の秦代に制作されたものです。
  日本ではあまり出土例がなく、大変貴重なものです。
  なぜ福井県で出土したのでしょうか。
  全国に伝えられた「徐福伝説」とのつながりもうかがえられます。≫

 三点の銅鏃の写真もある。

 説明文には三翼鏃と三角鏃とある。

 左の1例は会下山遺跡の銅鏃と同じ形状に思える。三翼鏃みたいである。

 中と右の2例は浜屋原貝塚の銅鏃と同じ形状に思える。三稜鏃みたいである。

 その他、詳細は書かれていない。


 (16)愛知県西尾市清水(しみず)遺跡

 清水遺跡は矢作川左岸の台地から沖積地に広がる縄文時代の貝塚として有名であるが、弥生時代をほぼ通じた時期の遺物も出土している。

 『清水遺跡 〜そのあらまし〜』(1998・西尾資料館)の中に、銅鏃にふれた文がある。

 ≪注目すべき遺物としては弥生時代後期と思われる土器の表面に絵を描いた壺や
  銅鏃、製塩土器の脚部片があげられます。≫

 この文章で、弥生時代後期が銅鏃の時期も示しているかどうか定かではないが、
 製塩土器の脚部の時代が弥生時代後期〜古墳時代初期と写真の説明にあるので、
 銅鏃の時期も弥生時代後期と報告者は考えているように思われる。

 掲載されている写真からは三稜鏃と思われる。

 このパンフレットには、出土の場所や状況の記述はなく、大きさや重さも書かれていない。

 正式な報告書は出されていると思われるので、調べてみたいと思っている。


 (17)愛知県名古屋市〜清須市朝日(あさひ)遺跡

 朝日遺跡は、東海地方最大級の弥生時代の環濠集落遺跡で、遺跡の推定面積は80万uにも及ぶという。

 朝日遺跡の報告書は、愛知県埋蔵文化財センターの発行分はすべてがネットで見られる。ありがたい。

 青銅製の三稜鏃は、2点出土している。

 ひとつ(@)は、名古屋環状2号線建設に伴う調査で、南区画の環濠内にある61H区より出土している。

 『朝日遺跡V』(1992・愛知県埋蔵文化財センター)に記述がある。

 登録番号61J-M-2 長さ4.4cm、幅0.7cm、厚さ0.6cm、茎幅0.5cm、茎厚0.4cm、重量4.7g

 ≪断面形が正三角形をなす三稜鏃になる。≫

 もうひとつ(A)は、北居住域の南縁部の99Ae区から出土している。

 『朝日遺跡Z』(2007・愛知県埋蔵文化財センター)に詳しい。

 ≪(銅鏃は、)小型の三稜形鏃であり、鏃長24mm、鏃身13mm、
  断面三角形の鏃厚が4.7mmで断面ほぼ円形の茎厚が3.1mmを測る。≫

 赤塚次郎氏が、『朝日遺跡Z』の総括のなかで愛知県における銅鏃の分類を行なっている。

 「朝日遺跡における金属製品の分布とその特徴について」である。

 それによると、U類が三稜形鏃となっており、編年では共に山中様式(弥生後期中葉)を想定している。


 このほかに石原渉氏が、「収蔵資料 永初六年銘「弩」について」の中で、他地域からの出土情報として
 ≪岩手県(花巻市)熊堂古墳にも出土例がある。≫と記載している。

 石原氏は『古文化談叢』第27集にある吉留秀敏氏らの論文を出典としている。

 石原論文を参照して大日方克己氏が、「日本古代における弩と弩師」で表「出土弩関係品一覧」に記載している。

 ≪岩手県・熊堂古墳、弥生中期、三稜鏃、出典(3)≫

 表に石原論文を参照とあり、出典は吉留論文と記載している。

 二人とも、吉留論文を出典にしているが、吉留論文には熊堂古墳は出てこない。

 この情報はどこから来たのだろう?それとも私の見間違えだろうか。

 ネットで熊堂古墳を調べると、ネット「岩手・熊堂古墳 - 邪馬台国大研究」に副葬品の写真がある。

 文中に銅鏃は出てこないが、写真のなかに銅鏃らしきものがある。

 ネット「岩手県花巻市の古墳」の表には熊堂古墳群の出土品に青銅製鏃の記載がある。

 いまのところ、これ以上のことは私にはわからない。

   (以下 次号)


  写真 26:坂出市角山東麓採集・三翼鏃(1983『讃岐青銅器図録』 より)

  写真 27:南方遺跡・両翼鏃(ブログ「歴史的速報@2ch:【考古】岡山市の集落「南方遺跡」で…」 より)

  挿図 28:南方遺跡・両翼鏃の実測図(2013『南方遺跡発掘調査現地説明会資料』 より)

  写真 29:福井県坂井市内発見・三翼鏃と三翼鏃(2013.10『広報えちぜん』第105号 より)

  写真 30:清水遺跡・三稜鏃(1998・『清水遺跡 〜そのあらまし〜』 より)

  写真・挿図 31:朝日遺跡・三稜鏃@(1992『朝日遺跡V』 より)

  写真・挿図 32:朝日遺跡・三稜鏃A(2007『朝日遺跡Z』 より)


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