館長だより 第64号
館長だより 第64号

館長の見聞録(32)

2014/11/23

   ☆ 日本最古の製鉄遺跡

 いつも利用する駅の掲示板のポスターを見て ”えっ!”と思った。

 ≪知っていましたか?日本最古の鍛冶工房跡が八千代にあった!≫

 八千代とは、大和から遠〜く離れた千葉県の八千代市のことである。

 古代日本の製鉄については、ほとんど知らないが、どちらにしても日本最古が千葉にあるわけはないだろう。

 ポスターには、現地説明会とある。

 主催は八千代市郷土歴史研究会とある。

 開催日は11月14日、明後日である。

 現地は、東葉高速鉄道の村上駅から徒歩7分である。

 とりあえず、行ってみよう。


 事前に少し勉強をする。

 鉄を造る工程としては、まず鉄鉱石や砂鉄を炉で溶かし鉄の塊(荒鉄)を造る。これを製錬という。

 次に、できた鉄に混じっている不純物を取り除く。これを精錬鍛冶という。このとき鉄滓が生じる。

 ここまでの工程を大鍛冶ともいう。

 そのあとできた鉄(鋼鉄、銑鉄など)を鍛造して鉄製品を作る。これを鍛錬鍛冶という。

 この工程を小鍛冶ともいう。この際にも鉄滓は生じる。

 鉄の時代については三段階が想定されている。

 ≪その1は、鉄器類が朝鮮・中国から伝来し、わが国ではまだ鉄生産も鉄器生産もない段階。(鉄器の使用)
  その2は、鉄生産はまだないが、鉄器類を生産する段階。この場合は鉄の素材を朝鮮から入手する。(鉄器の製作)
  その3は、鉄器生産にくわえて鉄生産も開始され、名実ともに鉄の時代となる段階である。(鉄の生産)≫
  (潮見浩「鉄・鉄器の生産」『岩波講座 日本考古学3 生産と流通』1986・岩波書店)

 以下は前掲誌の要旨である。

 弥生時代は前期(T期)、中期(U〜W期)、後期(X期)に分けて考えられている。

 その1時期の出土鉄器は、縄文終末にみられ、弥生T期に九州・中国・近畿の西日本に分布する。

 種類では手斧・刀子(とうす)・ヤリガンナなどの工具類を中心として九州では鏃がある。

 その2時期は日本特有の形態の鉄製品を国産と考えると、鉄器生産がU期に九州ではじまる。

 その後、鉄器生産は関東にいたる地域までひろくみられ、W期にはかなり普及している。

 その3時期では、X期に鉄器の出土例が激増し、その背景として鉄生産を想定できる。

 古墳時代に入ると、岡山・広島・福岡などで製鉄遺跡が検出されている。


 ポスターにある鍛冶工房跡とは、鉄器生産の鍛冶なのか、鉄生産の鍛冶なのか、はっきりしない。

 一番肝心な遺跡名が書かれていない。

 鉄器生産ならば、北部九州で弥生中期前半に鍛造による鉄鏃や小型手斧の国産がみられる。

 関東地方の弥生時代のはじまりは中期前半の須和田式土器からであり、日本最古とは、可能性がなくはない。

 それとも、八千代の遺跡は鉄生産の工房遺跡なのであろうか?

 期待と疑問が高まる。

 説明会の日は、朝から晴天である。

 指定された公園に行くと、遺跡の説明板がある。

 なんと、見出しに「鋼(はがね)をつくった家のあと」と書かれている。

 遺跡名は沖塚遺跡で、弥生時代中期から平安時代まで存続した遺跡らしい。

 日本の弥生時代中期で鉄生産の遺跡はまだない。

 これがほんとうならば、日本最古である。

 いただいた資料をざっとみる。

 そこには沖塚遺跡の製鉄遺構は古墳時代初頭(3〜4世紀)とある。

 弥生の製鉄遺跡と思っていたのは、全くの間違い、私のはやとちりであった。

 沖塚遺跡の弥生中期は、遺構を伴わずに出土した1個体分の土器が、弥生時代中期前半によるものと後でわかった。

 それにしても、一般に鉄生産は西日本では6世紀といわれているので、沖塚遺跡の古墳時代初頭でも日本最古となる。

 説明会は八千代市郷土歴史研究会の製鉄研究グループのリーダー田中厳氏によっておこなわれた。

 まず、沖塚遺跡周辺の様子をパネルを使って解説をする。(パネルは上が南)

 沖塚遺跡の西側に新川が北から南へ流れる。

 遺跡のすぐ脇まで低湿地がせまる。

 現在の新川は直行しているが、当時は蛇行していて、遺跡の場所は船が寄れる水運に便利だった可能性がある。

 遺跡の横の台地上には沖塚古墳@がある。

 沖塚古墳は二段築成・直径25mの円墳で、木下貝層の砂岩製の横穴式石室があったという。

 近くには、村上1号古墳A、根上神社古墳B、浅間内古墳Cなどがある。

 集落遺跡としては8C前半〜9C後半と時代は新しくなるが、村上込ノ内遺跡Dがある。

 村上込ノ内遺跡からは竪穴住居址155軒、掘立柱建物跡24軒と多数の遺構が検出されている。

 沖塚遺跡に、古墳時代の製鉄遺構があってもおかしくない状況と田中氏は言う。

 研究会の資料と田中氏の話によると鍛冶遺構と思われる住居址は以下のようである。

 沖塚遺跡で発見された問題の遺構は1辺6.5m四方の竪穴住居である。

 住居址の中央に、直径15cm、深さ約17cmのお椀型に凹んだ炉がある。

 炉壁には粘土が貼られ、高温のために変色している。

 炉壁に一部に羽口の挿入口とおぼしき切込みがある。

 集中して多量に出土した鉄滓が3kg、ほかに小鉄製品がある。

 ネットで調べたら、ウィキペディアの「村上(八千代市)」に沖塚遺跡の簡潔な記述がある。

 ≪沖塚遺跡は弥生時代中期から古墳時代前期にかけての遺跡であり、
  不純物を除くための粘土や砂鉄、細かい鉄くずが大量に出土した。
  当時の作業は製錬→精錬→鍛錬であり、今までの遺跡は鍛錬が中心で年代も5世紀頃のものが多かったが、
  この遺跡は高度な技術を必要とする精錬が行われていて、
  且つ年代も3世紀後半のものであったため全国的に有名となった。
  わずかに刀子なども出土していたことから鍛錬も行っていたとされるが、
  未だに製錬炉は出土しておらず、荒鉄の入手先は不明である。≫

 ここまで、製鉄の条件が揃うと、後は、製鉄遺跡であるため課題は、原料の問題である。

 発掘調査報告書にも≪鉄素材がどこからきたかが問題である≫と資料に書かれている。

 そこで、田中氏は寸暇を惜しんで、八千代市内で鉄素材を探したという。

 沖塚遺跡のある場所に鉄道のトンネルを建設する時、削られた丘陵の傾斜面に鉄さびの固まった褐鉄鋼。

 浅間神社の裏の崖から鉄鉱石の層。

 桑納川の崖から良質の山の砂鉄。

 八千代市内のあちこちの場所から多種の鉄素材が発見された。

 これで、地元で鉄が作れる。

 田中氏の努力が、期待を確信に変えた。


 来る12月3日に八千代市郷土歴史研究会による「古代製鉄実験」が行なわれることになった。

 場所は黒沢池近隣公園で12時からである。

 私もぜひ見学に行きたいと思っている。


  写真 1:沖塚遺跡の現地説明会ポスター

  写真 2:黒沢池近隣公園にある沖塚遺跡の説明板

  写真 3:沖塚遺跡周辺の遺跡分布図(黄緑部分が低湿地)
      (赤線囲み)A 沖塚遺跡(赤↑が製鉄遺構)、B 黒沢池上遺跡、C 黒沢台遺跡、
             D 村上込ノ内遺跡、E 白筋遺跡、F 浅間内遺跡、G 川崎山遺跡
      (青 丸)  @沖塚古墳、A村上1号古墳、B根上古墳、C浅間内古墳、D上ノ山古墳群

  写真 4:沖塚古墳の模型

  写真 5:精錬炉の模型

  写真 6:褐鉄鉱の地層

  写真 7:桑納川沿いの崖斜面の砂鉄のある地層

  写真 8:褐鉄鉱の地層(村上・浅間神社下)

  写真 9:褐鉄鉱(八千代市産)

  写真 10:砂鉄(八千代市産)

  写真 11:古代製鉄実演のポスター


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