館長だより 第6号
館長だより 第6号

館長のおもいつき(3)

2012/05/06

   ☆ 卑弥呼は卜骨でなにを占うのか

 前号で卜骨を見たと書いたが、よく考えると、私は卜骨についてほとんど知らない。

 鹿の骨を灼いて吉凶を占うというが、骨を灼くとはどうすることだろう。

 焚き火の中に入れるのか、火の上であぶるのか、火箸みたいなものを骨にあてるのか、初歩的なことすらよくわからない。

 『日本考古学事典』(2002・三省堂)で調べてみる。

 ≪動物の骨を使用する占いが骨卜であり、使用した動物の骨が卜骨である。
 そのなかでカメの甲羅を使うのが亀卜であり、使用した甲羅を卜甲と呼ぶ。≫

 なるほど、卜骨は占いのことではなく、占いに使った骨そのものをいうことを確認できた。

 ≪中国最古の卜骨は東北地方の新石器時代のシカの肩甲骨を使用したもので、(略)
 殷代では河南省殷墟から膨大な量の卜骨・卜甲が出土しており、骨卜・亀卜が国事の決定に重要な役割を果たしていた。
 占いの内容・結果や占者を卜骨・卜甲に刻字しており、それが甲骨文字である。≫

 卜骨は戦争をすべきか、同盟を結ぶべきかなどの大事な国の意思決定するときに用いられた方法であるという。

 その方法について『歴史考古学大辞典』(2007・吉川弘文館)に書かれている。

 ≪裏面を削り骨を薄くして加工し灼を入れ、表面に生じた亀裂の形状によって吉凶を占う方法と、熱した棒状のものを押し当てる点状焼灼法(てんじょうしょうしゃくほう)がある。≫

 火でやく方法も熱い棒を当てる方法もあったことがわかる。

 日本で出土した資料62点を神沢勇一氏が整理・分類したと『日本考古学用語辞典』(1992・学生社)に書かれている。

 出典は「弥生時代、古墳時代および奈良時代の卜骨・卜甲について」(『駿台史学』第38号・1976)である。

 詳細はそちらに譲るが、弥生時代の資料に限ってみると2種ある。

 弥生時代前期の例は、整形した素材の片面に平面が円形断面が半円形呈する整美な鑽(さん)を設け鑽の内側に焼灼を加えたもの。

 弥生時代中期と後期の47例は、素材の表面の一部を鋭利な刃物でわずかに削り、その部分に点状の焼灼を加えたもの、という。

 ≪日本では、弥生時代後期に比定される神奈川県三浦市間口洞窟での鹿・猪・イルカの卜骨の発見を契機に各地の遺跡で確認され、近年では鳥取市青谷上寺地遺跡で実に227点もの卜骨がまとまって検出されている。
 弥生時代の卜骨の六割は鹿の肩甲骨が用いられている。≫(『歴史考古学大辞典』)

 「魏志倭人伝」の記事は当時の日本の状況をよく記述していることになる。

 ≪その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを視て兆を占う。
 ――其俗挙事行来有所云為輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辞如令亀法視火タク占兆≫(タクは土偏に斥)

 さて、ここからが本題である。

 中国の殷代では国家の重大事を卜骨で占って決めたというが、邪馬台国時代の卜骨も同様に国家の大事を占うために用いられたであろうか。ちょっと考えてみる。

 『礼記』には≪大事を占うには亀卜をもってし、小事には筮をもってする≫という。

 筮は筮竹で占うことであり、筮師がこれを行なうという。

 殷代では王が筮師の長であったという。

 卑弥呼は倭女王であるので、筮師の長でもあったのであろうか。しかし、「倭人伝」には筮は出てこない。

 「倭人伝」には、卑弥呼は≪鬼道に事え、能く衆を惑わす――事鬼道能以妖惑衆≫とある。

 卑弥呼が神託を示すには、骨卜ではなく、もっぱら鬼道を用いたということであろうか。

 それとも、卑弥呼は民衆を治めるには鬼道を用い、諸国の統治には骨卜を用いたのであろうか。

 しかし、卑弥呼は人前にでることがなく、卑弥呼による神託は一人の男子より伝えられるという。

 それでは、卑弥呼がどちらのやり方で神託を得ても、自身で直接、神託を伝えないのであれば、鬼道と骨卜の使い分けは意味がないことになってしまう。

 頭のなかを想像ばかりが駆けめぐる。

 日本の卜骨の出土状況は、時代的には弥生時代から古墳時代にかけて、そしてそれ以降も出土している。

 出土地としては、対馬や壱岐をはじめ、出雲地方や佐渡島、三浦半島から北海道南部まで広範囲にみられるという。

 邪馬台国時代の出土状況を精査しなければならないが、どうも、邪馬台国がどこであるにしろ骨卜は一極集中で行なわれた方法ではないようである。

 卑弥呼が卜骨による占いを独占していたとは考えられない。

 三浦半島出土の卜骨について、企画展のパンフレットには漁の豊凶や航海の安全を占った可能性が高いと説明がある。

 各地で出土する卜骨は、自分たちのムラに係ることを占うのに用いられたと考えたほうが良さそうである。

 もともと倭人伝にも≪その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、≫とある。

 この部分を現代語に意訳すれば、「行事や旅行を行なう前に、骨を焼いて、」となる。(ネット「邪馬台国大研究」より)

 いわば、日常の小事に骨卜を行なっているということである。

 すると、魏に朝貢をすることを決めたり、狗奴国との不和を武力で解決すべきか否かの決断などの国家にかかわる重大事に卑弥呼が卜骨が用いたと安直に考えるわけにはいかない。

 邪馬台国時代の卜骨による占いは、どうも一筋縄ではいかないようである。

 もっと時間をかけて出土資料の集成からはじめなければならないようである。

 ところで、殷代では占う事柄を骨に文字で刻んでいるが、日本の卜骨で甲骨文字の刻まれている資料はあるのだろうか。

 まだ見ていないので、ご存知の方は教えていただきたい。

 日本でも甲骨文字が刻まれていれば、なにを占っていたのかわかるかもしれない。未だ不明である。


  挿図:影印南宋紹熙刊本の「魏志倭人伝」の一部(ネット「邪馬台国大研究」より作図)

  写真:卜骨・神奈川県横須賀市毘沙門洞窟出土(ネット「東京国立博物館・画象検索」http://www.tnm.jp/ より)

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