今回の山陰行きは、鳥取県湯梨浜(ゆりはま)町で開催される「古代史(邪馬台国)サミットin高千穂」に全国邪馬台国連絡協議会のメンバーと参加するための旅である。山陰古代史の旅は、羽田空港を離陸した飛行機が出雲縁結び空港に着陸したときからはじまる。
(1) 神庭荒神谷遺跡(島根県出雲市)
空港から車で10分ほどの距離に神庭荒神谷遺跡がある。
遺跡からは、1984(S59)年に358本の銅剣、1985(S60)年に6個の銅鐸、16本の銅矛、計380点の青銅器が発見されている。
弥生時代におけるこれほど大量な青銅器の出土は、いままでに例がなく、しかも埋納状態がはっきりわかることも貴重である。
1998(H10)年に、銅剣、銅鐸、銅矛は一括で国宝に指定されている。
遺跡は、『出雲風土記』に「神名火(かんなび)山」と書かれている仏教山の山ふところにある谷奥を上ったところにある。
遺跡は整備され、土が露呈しているが、弥生時代にあたりは木々でおおわれ薄暗かったであろう。
よくこんなところに埋めたものだと感心する。
隠したものならば、なかなか見つけられない場所である。
現在、遺跡の場所にはレプリカの青銅器が置かれ、発掘当時の出土状況がそのまま再現展示されている。
博物館のケースの中で見るのと違って、迫力があり感激である。
ただし、ロープがはられて、近づけないのがチョット残念。
出土遺物の詳細は遺跡入口横にある荒神谷博物館でわかる。
(2) 荒神谷博物館(島根県出雲市)
通路を通り展示室内入るとそこは薄暗く、中央にある青銅器出土状況のジオラマ展示だけにスポットライトがあたっている。
展示から少し下がってイスに座ると、壁面の大画面で「発掘ドキュメント」が上映される。
展示と映像で荒神谷の謎にせまる心憎い趣向である。
遺跡から出土した銅剣はいずれも50cm前後の中細形で、「出雲型銅剣」といわれるようになったものである。
中細形銅剣は、前段階の細形銅剣と次の平形銅剣の間に位置する型式である。
カタログ『祀(まつり)×戦(いくさ) ―荒神谷銅剣』(2007)に中細形銅剣の説明がある。
≪剣身長が伸びたことから茎(なかご・柄を挿す部分)の長さの比率が低くなる。
剣身下部の関(まち)幅も広がる一方で茎径は小さくなり、剣としての機能が失われてきていることがわかる。≫荒神谷から出土した出雲型銅剣は実用銅剣から祭祀用銅剣への移行期の銅剣であり、実用性を残しつつ、祭祀に用いられた銅剣ということになる。
展示のテーマに、「なぜ埋納されたか」、「×印はなにか」がある。
埋納には、隠匿説、祭祀説、境界埋納説、土中保管説などがあるという。
出土地の状況や大量にそのまま今日まで掘り出されていないことなどを思うと、私は抗争による隠匿説が説得力があるように考えられる。
×印は、護符説、辟邪説、マーク説、封印説などがある。
荒神谷銅剣では、×印は仕上げ研磨のあとで刻まれているという。358本中344本に×印がある。
同様の×印が加茂岩倉遺跡出土の銅鐸にもある。39個中14個にある。
他には大板井遺跡(福岡県)の銅戈、東奈良遺跡(大阪府)の銅戈の鋳型、道後今市北(愛媛県)の平形銅剣にあるという。
なんとも不思議な印ではあるが、前掲カタログには呪術的な意味合いを感じるとある。
≪(銅剣では)柄に差し込まれる茎や、(銅鐸では)紐で吊り下げる鈕の頂といった、
本来の使用状況では他から見えないところに印されるという点では呪術的な意味合いが強く感じられる。≫考古学者の解説には、理解に苦しむ事柄に出合うと呪術的という言葉をよくみかける。
見えないところに印がついているならば、呪術よりマークの方が理解しやすいと思える。
しかし、所有を示すマークならばほかに△や○があってもよさそうなものである。
×印がたくさんあることは、ひとつの集団の所有とはチョット考えにくい。
その点、×印は製作者の印と考えると無理がない。
どれもひとつの可能性を示すだけで、納得いくものとはいえない。
×印の意味を考えるよりも、なぜ×印があるものとないものがあるのか、その理由を考えたほうがいいかもしれない。
(3) 加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)
荒神谷遺跡から一山越えた谷奥に加茂岩倉遺跡はある。
尾根伝いに行けば、8kmの道のりである。
道路脇の駐車場から遺跡までは上り坂をかなり歩いていかなければならない。
遺跡のある環境は同じであるが、加茂岩倉遺跡の方が谷の奥深さははるかにある。
位置も高い。下から18mもあるという。
誰もこんなところに銅鐸が隠してあるなどとは、思いも寄らない場所である。
事件は現場で起きている、は映画の台詞であるが、報告書や写真集を見ているだけではけっしてわからない。
目で見て、足で歩かなければ、遺跡の置かれている状況は理解できない。
もっとも、現地を訪ねたからといっても、私にはたいしたことはわからないのだが、ただ感じるだけである。
加茂岩倉遺跡からは、1996(H8)に銅鐸39個が発見された。
しかも、大きな銅鐸のなかに小さな銅鐸を入れた、入れ子状態である。
入れ子状態の埋納が調査で確認された初例である。
こちらの青銅器にも×印がある。
敵が去ってから掘り出したときに、自分のムラのものを選別するための印なのか。
発掘現場は、荒神谷遺跡と同様にレプリカによる復元展示されている。
高い尾根の傾斜面にある銅鐸群は見つからないように隠したと言わずして何というべきか。
(4) 加茂岩倉遺跡ガイダンス(島根県雲南市)
銅鐸が見つかった場所から谷をはさんだ向い側に同じ高さで橋のように木道で結ばれているところにガイダンスがある。
ガイダンスとは、遺跡周辺の豊かな自然景観を楽しみながら遺跡への理解を深めるための総合案内所と説明にある。
なるほど、遺跡のある状況がよくわかる。
ガイダンス内には、遺跡の解説パネルや出土銅鐸レプリカが展示されている。
ボランティアの方の親切で詳しい説明を聞くことができた。
出土した銅鐸には、石の鋳型で造られたものと土の鋳型で造られたものがあるという。
その違いを聞くと、模様の緻密さ、鋳上がりのよさの良いものが石の鋳型との答である。
そして、兄弟銅鐸も石製鋳型による銅鐸が多いという。
15個8組の兄弟銅鐸のうち、石製鋳型では7組、土製鋳型が1組である。
銅鐸の高さは29.5cm〜49cmで、30cm前後のものと45cm前後のものとに大別される。
文様や型式にこれまでない特徴的ものがあり、出雲の独自性が感じられるという。
海亀、不明の四足動物、人面などがそれである。
どれも興味深い話であるが、あまり長居をすると今日の予定がこなせなくなるので、30分ほどで失礼をした。
(5) 神原神社古墳(島根県雲南市)
神原神社古墳は、島根県では最古に属する大型の前期古墳であるという。
古墳の概要が雲南市教育委員会のリーフレットに書かれている。
≪この古墳は大原盆地を流れる赤川左岸の微高地突端にあり、
墳丘上には『出雲国風土記』にみえる式内神原神社の本殿が建っていた。(中略)
墳丘はたびかさなる社殿の増改築によってかなりの変形をうけていたが、
調査によって南北27〜30m、東西22〜26m、高さ6.9(周溝底からの復元高)mの方墳であることが判明した。
遺骸を納めるための内部構造は、主幅をほぼ南北におく狭長な竪穴式石室で、
墳丘中央の盛土中から掘り込まれた墓壙内に築かれている。
規模は内法で長さ5.75m、幅北端部で1.3m、南端で0.95mあり、床面から蓋石までの高さ約1.4mを測る。≫現在、我々がみられる神原神社古墳は移築されたもので、古墳の上には覆い屋がある。
赤川の堤防からは一度下って、墳丘の盛土に登る。目線に堤防の道路があるためか、あまり高さは感じられない。
墳丘中央には、扁平な板状石を持ち送り式に積み上げて造られた竪穴式石室がある。
出土遺物には景初3年銘の三角縁神獣鏡のほか、素環頭大刀、木装大刀、剣、槍が各1、鉄鏃36などがある。
古墳周辺にはこれら出土遺物が見られるような施設はない。
説明板と数枚の写真があるだけである。ちょっと残念。
遺物は島根県立古代出雲歴史博物館に行かなければ見られない。
遺物の多さを知らなければ、それほど重要な古墳とは思えない。
古墳の復元展示の状態が、そう思わせるかもしれない。
貴重な遺跡を生かし切れていないような気がしてならない。
写真 1:神庭荒神谷遺跡の遠景(館長撮影)写真 2:358本の銅剣(レプリカ)の発掘当時の様子(館長撮影)
写真 3:6個の銅鐸、16本の銅矛(共にレプリカ)の発掘当時の様子(館長撮影)
写真 4:荒神谷博物館内の銅剣358本(レプリカ)の展示(館長撮影)
写真 5:館内の銅鐸6個、銅矛16本(共にレプリカ)の展示(館長撮影)
写真 6:銅剣の茎(なかご)にある×印(神庭荒神谷遺跡出土)(『祀×戦 ―荒神谷銅剣』2007)より作成)
写真 7:加茂岩倉遺跡にある「いにしえ弥生の道」の説明板(館長撮影)
写真 8:発掘調査中の加茂岩倉遺跡の遠景(『銅鐸の谷(アサヒグラフ別冊)』1997より)
写真 9:加茂岩倉遺跡の発掘された銅鐸(リーフレット「加茂岩倉遺跡」より)
写真10:加茂岩倉遺跡から発掘された39個の銅鐸(リーフレット「加茂岩倉遺跡」の表紙より)
写真11:復元されている神原神社古墳の竪穴式石室(館長撮影)
写真12:神原神社古墳発掘前の状況(覆い屋内にある写真を館長撮影)
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