先日、用があって千葉県袖ヶ浦市に車で行ってきた。休憩のために寄った道の駅に、観光地図やレストランなどのいろいろな印刷物があり、そのなかに青銅鏡をデザインに使ったものがあった。
見ると、袖ヶ浦市郷土博物館で行なわれている企画展「上総の古鏡」のパンフレットである。
副題に ―カガミが語る古墳時代の心と形― とある。
会期は10月5日から11月24日まで、場所は今いる所から車で10分ほどの距離である。
そのうえ、入館料は無料である。
私にとって、これを見逃す理由はなにもない。
袖ヶ浦市郷土博物館は灌漑用溜め池の上池をのぞむ台地面にある。博物館の建設用地からは縄文土器や弥生・古墳時代の住居址、土坑、土器が見つかっている。
西ノ窪遺跡といわれている。
現在、博物館に隣接して弥生時代と奈良時代の竪穴住居址が復元されている。
企画展を見る前から、期待が高まる。
博物館の1階は常設展示場。
袖ヶ浦市の通史が見られる。
弥生時代のコーナーでは、水稲耕作と柵で囲われている集落の生活が遺物とジオラマで展示されている。
2階が企画展の「上総の古鏡」である。
パンフレットの説明によると、千葉県からは古墳時代の銅鏡が110面以上確認されているという。
≪このうち、上総地方では75面にも及ぶ銅鏡が出土しています。(中略)
今回は、木更津市手古塚古墳のボウ製三角縁神獣鏡を初め、木更津市祇園大塚山古墳の四仏四獣鏡など
上総地方を代表する銅鏡50面と関連する銅鏡などの資料を展示します。≫展示は四章にわかれている。
第T章 東日本の青銅器文化と中国鏡のうつりかわり
東日本の青銅器文化を紹介するものとして、袖ヶ浦市の水神下遺跡から出土した重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)や小銅鐸が特別公開されている。
小銅鐸とは珍しい。私は小銅鐸に以前から興味を持っている。
そこで、しばし話題は鏡から離れる。
佐原真氏は、銅鐸の鈕の断面形に注目して、T式:菱環鈕式・U式:外縁付鈕式・V式:扁平鈕式・W式:突線鈕式の変遷を考えた。
卓見と思われる。しかし、ここに小銅鐸はでてこない。
銅鐸は聞く銅鐸から見る銅鐸へ、小型から大型へ変化するというが、では小銅鐸はすべて初期の銅鐸といえるのか?
鳥取県・長瀬高浜遺跡では、古墳時代の住居址から出土した例もある。
小銅鐸の出土例はネットで調べると48例もある。
その分布は関東から九州まで広範囲にある。
千葉県は最多の8例である。つぎは福岡県の6例である。
この分布の意味するところはなんであろうか。
小銅鐸と類似するものに、銅鐸型土製品がある。
これも小型ではあるが、音はならない。聞く銅鐸ではない。
小型でも見る銅鐸なのであろうか?
小銅鐸はなにも解明されていないナゾの銅鐸である。
小銅鐸はボリュームがないためか、展示会でもなかなかお目にかかれない。
それが目の前にある。常設展示コーナーにもうひとつある。
思ってもいなかったときに突然出合うと興味があるだけにちょっと興奮する。
会場には、漢〜三国時代の中国銅鏡として、長宜子孫銘内行花文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡が展示されている。
展示品の横に説明がある。
≪中国漢代の内行花文鏡や方格規矩鏡は弥生時代を代表する舶載鏡ですが、
古墳時代出現期・前期には、漢代の獣帯鏡や後漢から三国時代の神獣鏡、龍虎鏡、キ鳳鏡などが加わります。
また、古墳時代中期から後期には、舶載鏡は減少しますが、後漢から三国時代の画文帯神獣鏡や画像鏡が中心となります。≫卑弥呼がもらったであろう位至三公鏡にふれていないのがちょっと残念。
上総地方では出土していないのかもしれない。
第U章 ナゾの銅鏡の出現―三角縁神獣鏡と重圏文鏡―≪関東では、弥生時代にさかのぼる銅鏡はほとんどなく、上総地方でも明らかに弥生時代の遺跡から出土した銅鏡はありません。
県内最古クラスの前方後方墳である木更津市高部32・30号墳では後漢代の銅鏡が副葬され、
時期的に古いと考えられる32号墳からは舶載の獣帯鏡の破鏡が出土し、
次の30号墳では舶載の二神二獣鏡の破砕鏡が発見されました。
これらの出土状況から、北部九州や瀬戸内地方の弥生時代終末期の信仰や習俗が直接的に伝播した様子がみられ、
銅鏡が房総半島の一首長が数代にわたりヤマト王権とは別なルートで、手に入れたことがあったかもしれません。≫この解釈は、邪馬台国畿内説を否定することになるのかなあ。実に興味深い。
古墳時代前期になると、千葉県からも三角縁神獣鏡は出土しているが、わずか2面しか確認されていないという。
下総地方では、香取市・城山1号墳から1面、上総地方でも木更津市・手古塚古墳の1面だけである。
千葉県の大型古墳の調査例が少ないためとはいうが、群馬県の13面に比べると少ない。
展示場では手古塚古墳出土の(ボウ製)三角縁神獣鏡がみられる。(写真6)
鏡背面が赤く見えるのが気になった。朱でもついているのか、それともたんなる錆か、わからなかった。
第V章 大きい鏡が好き―画文帯四仏四獣鏡と珠文鏡・獣形鏡―≪古墳時代中期から後期にかけては、大型のボウ製鏡である画文帯神獣鏡の他に、
捩文鏡や乳文鏡、獣形鏡などの小型鏡が多くみられます。≫展示品には、木更津市祇園大塚山古墳の画文帯四仏四獣鏡(30.6cm・写真7)や木更津市金鈴塚古墳から出土した変形神獣鏡(15.82cm・国指定重要文化財・写真8)がある。
個人的に注目は、國學院大學所蔵の伝ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡(17.6cm)である。
『ホケノ山古墳調査概報』(2001・学生社)にその存在が記されている。
≪ところで、すでにホケノ山古墳出土ではないかといわれている鏡が三面ある。
二面は國學院大學が所蔵する画文帯同向式神獣鏡二面である。(中略)
他の一面は三輪の大神神社が所蔵する長宜子孫内行花文鏡である。≫発掘調査で同じ画文帯同向式神獣鏡(19.1cm)が見つかっているので、見過ごせない。
発掘による出土でない遺物は、参考品としての意味しか持たないが、見られたことはうれしい驚きである。
残念ながら、カタログに写真の掲載はない。
第W章 いのりの鏡から姿見へ
≪古墳時代終末期の銅鏡は鏡式が古墳時代後期との関係がなくなり、海獣葡萄鏡に大きく変化します。≫
君津市白山神社古墳から伝出土の海獣葡萄鏡(11.16cm・写真9)がある。
摩滅しているのか、鋳上がりが悪いのか、文様がはっきりしない。
くらべると高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡はさすがに立派。
そのすごさを改めて感じる。
企画展はスペースがさほどではないのに、内容が充実している。通常、企画展というと大きいものをこれでもかというほどに並べている場合が多い。
青銅鏡も20cm、30cmという大きいものが並ぶ。
いつしか、それに慣れ、鏡の大きさはこれがあたりまえと感じてしまう。
今回の企画展は、10cm前後のものが多く展示されている。
当時の鏡事情は、これが普通だったのではないだろうか。
会場を出て、そんなことを思った。
写真1:上総の古鏡 展のパンフレット写真2:西ノ窪遺跡の奈良時代・復元住居(ネット「袖ヶ浦市郷土博物館のHP」より)
写真3:小銅鐸(袖ヶ浦市水神下遺跡出土)(上総の古鏡展のパンフレットより)
写真4:重圏文鏡(袖ヶ浦市水神下遺跡出土)(上総の古鏡展のパンフレットより)
写真5:小銅鐸(袖ヶ浦市文脇遺跡出土)(上総の古鏡展のパンフレットより)
写真6:三角縁神獣鏡・部分(木更津市手古塚古墳出土)(上総の古鏡展のパンフレットより)
写真7:画文帯四仏四獣鏡(木更津市祇園大塚古墳出土)(上総の古鏡展のカタログより)
写真8:変形神獣鏡(木更津市金鈴塚古墳出土)(上総の古鏡展のパンフレットより)
写真9:海獣葡萄鏡(君津市白山神社古墳伝出土)(上総の古鏡展のカタログより)
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